それからは、一分、一秒を噛み締めるように、毎日を二人で過ごした。
 もちろん俺は仕事があるので四六時中というわけにはいかないが、それでも前以上に二人でいる時間を増やした。
 休みの日には二人で出掛けるという習慣も、もちろん欠かさず続ける。相変わらず行動範囲は限られているが、別にどこへ行こうとも二人で居ればそれで楽しかった。
 金銭的に僅かな余裕が出れば、普段は控えているようなちょっとばかしの遠出やランチに心躍らせ、ささやかな贅沢を満喫する。
 朝比奈さんの靴も買ってあげた。女の子だってのに、履き潰されて黒ずんだスニーカーで足元のオシャレを演出しようってのは、ちょっとばかし無理があるからな。
 当初それを提案した直後は、「ダメです。そんな贅沢」なんていう予想通りの反応で朝比奈さんは片意地を張って拒んでいたのだが、珍しく俺がそれ以上の意地を張って、ほぼ強引にファッションビルへと連れ出したのだ。
 春を迎えようとする季節の変わり目に、俺が風邪を引いたりもした。
 おそらく気温的にも落ち着きを見せたことに気が緩んだのだろう、朝から気怠さの俵を背負いつつ、重い体が朝の仕度を阻害するような感覚のひき始めだった。
「……あの、どうかしたんですか?」
 眉を八の字に固定して、朝比奈さんが心配げに俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、なんか体が重くて。たぶん暖かさで気持ちが緩んだんでしょう。気を入れ直さないと」
 ダラダラと仕事するわけにもいかないしな。クビにでもなった日にゃ、それこそ首を吊ることになりかねない。
 せめて顔筋の緩みだけでも引き締めようと、俺は洗面台へ向かい、蛇口を捻って頭を前に倒す。ちょうど90度近いお辞儀の体勢になったその時である。
 クラッときた。
 名斬られ役者かもしれない俺のフラつきっぷりに、朝比奈さんは「ひゃいっ」なんて口走りながら俺に手を伸ばしてくれる。ワンテンポツーテンポ遅いのはきっと愛嬌だろう。
 そうして結局その日は、悔しくも仕事を休むことになってしまった。
 必要以上の心配顔を作りながら付きっ切りで看病してくれていた朝比奈さんには悪いが、俺はそんな朝比奈さんを目にして一人頬を緩ませていたのは秘密だ。


 そんな、特別なところなどこれといって見当たらない、他愛も無いショートストーリーを積み重ねながら、日々は忙しなく過ぎていった。
 単調なのに充実した毎日。安上がりなのに、きっとミリオネアより満たされた幸福感。
 けど、うず高く積み重ねられた数々のショートストーリーは、まるでジェンガのように紙一重のバランスだった。
 時間の流れという残酷な通告者が、十ヶ月後という突き棒を携えて、そのジェンガを倒すべくこちらへ向かっている。








 冬に流した大量の朝比奈さんの涙が今頃になって蒸発し始めたのか、雲の密度が増したようで、今にも雨がパラつきそうな梅雨も中頃といった季節。
 どうにも最近、流れ作業と化してきたいつも通りの仕事を終えると、俺は今にも降り出しそうな雨を気に掛けて早々に帰路についた。
 朝比奈さんの言う通り、傘を携えておいた方が良かったのかもしれん。家を出る時にパラついていないと、嵩ばってどうも傘を持つ気にはなれないんだよな。誰か某収納カプセルとか開発してくれないだろうか。
 なぜかそこで某ジャンピングシューズが脳裏に浮かんだ俺は、それこそ足にバネが付いたような軽やかさで家へ続く道のりを歩んでいた。
 距離的にはようやく折り返し地点、なんとか雨が降り出す前に玄関をくぐれそうな予感がしてきた頃。その予感を揺るがすように、暗雲が一層どす黒さを増し始めた。
「キョンくん」
 見計らったかのようなタイミングで背後から聞こえたその声は、毎日聞いている可愛い声にとてもよく似た、だがそれとは少々艶の入り具合が異なる声。
 見知らぬ人が間違って声を掛けてきたんだろう。きっと、そうだ。偶然にもあだ名が同じようだが、別にありえない話じゃない。
「キョンくん、待って」
 きっと俺とは無関係のキョンとやらを呼び止めているにも拘らず、まるで俺の背中に浴びせられているような錯覚。そう、錯覚だ。
 だが、反射的に体を半回転させた俺の視界に写ったのは、ガラスの靴を素敵に履きこなせそうな、成長したシンデレラの端麗な姿だった。
「お話が、あります」
 真っ白になる俺の頭の中に黒インクを落とすように、近づくハイヒールの音が俺の頭で黒い波紋を作る。
 お話? いや、せっかくご足労いただいたところ申し訳ないですが、俺は早いとこ帰って明日という休日を有意義に過ごすための計画を二人で綿密に練るという、衣食住に並ぶ大切な仕事が待っているんです。
 だから、今日のところは、
「キョンくん、お願いだから聞いて」
 そういえば、こないだ譲り受けたチケットの映画って、まだギリギリやってたよな。確かあの双子の片割れがボロカスに評価していたような気もするが、
「キョンくん!」
 人通りといえば野良猫程度の夜の歩道に、高く張り上げる声が響く。
「キョンくん、気持ちは解るの。でもね、とても大事な話をあなたに聞いてもらわなければいけないの」
 うって変わって今度はペースト状の何かでも包んでいそうな柔らかい口調。でも、きっとそれを齧ったところで甘ったるいカスタードクリームの味なんかしやしない。そこにあるのは苦い大人の味なんだろうよ。
 まだまだ俺はビールの旨さも解らないガキだからさ、そんなもんはもっと俺が歳食ってからにしてくれ朝比奈さん(大)。
「涼宮さんが大規模な時空振動を起こしてから三日間、あたしはここでのあなたたち二人の関係を見てきました」
 そうですか。ならば話は早い。
「とても驚いたわ」
 まあ、俺自身が驚いていますからね。
「そして、とても嬉しかった。あたしのことをこんなにも想ってくれていて……」
 そうですか。ならば当然、辛酸を嘗め尽くした末にようやくここまで辿り着いた俺たちのことを祝福していただけるんですよね? 
 よもや共に歩んできたパートナーご本人から祝福の言葉をいただくことになろうとは。そうそう体験できることじゃないな。
「キョンくん、あたしだってもちろん祝福してあげたい。一緒に喜びたい。何しろそれはあたし自身のことなんだから。でも、」
 何かを思い出すようにゆっくりと瞼を閉じ、そして僅かな間を置いたあと、朝比奈さん(大)は再び俺の目を見据える。
「あなたたちを、このまま元の時間軸へ帰すわけにはいきません」
 その台詞が来るだろうことを、俺は充分に予想できたし、覚悟はしていた。
 けど、覚悟してたからって、それをやすやすと受け入れられるほど俺は物分かりの良い人間じゃない。納得なんてできやしない。
 俺と朝比奈さんがここで紡いできた絆は、どれだけの想いの上で成り立っているのか、この人はそれを知っているはずだ。それに、
「今のSOS団なら、たぶん大丈夫ですよ。俺たちがこのままの関係を保ったまま帰ったとしても、きっとうまくやっていけると思います」
 SOS団。
 何年も離れていたってわけじゃないのに、やたらと懐かしい響きに感じる。
 うん、そうだよな。ハルヒは最初、団の規律だかなんだかで団員内の恋愛は禁止だとぬかしていたが、今のあいつならなんだかんだで解ってくれるさ。
「キョンくん、ダメなの。涼宮さんに及ぼす影響は、決して良い方向じゃないわ。それともう一つ」
 まだ何かあるってのか。
「今こうしてあなたの目の前に居るわたしは、今のところ間違いなくあなたとここで過ごしてきた幼いわたしの延長線上です」
 ええ、解っていますとも。
「だからここで起こったことは、あたしだって経験しているはず。今のところあなたたちに、既定事項から外れたような出来事が起こったことはありませんから」
「なら、あなたにだって今俺がどういう想いを抱いているのか、それを充分に理解できるはずですよね」
 俺が問い質すように言葉をぶつけると、朝比奈さん(大)はその水晶のような顔を蒸気に当てたように曇らせ、

「それがね、キョンくん。あたしはここで起こった出来事を、あなたとここで過ごしてきたことを、今の今まで知らなかったの。覚えてないの……」

 やっぱり、話なんて聞かずにとっとと帰っておくべきだった。
 それがどういう意味を示すのか、俺と俺の朝比奈さんの向かうべき方向がどのように示されているのか、そんなもんちっとも理解したくないってのに、それに反して俺の脳は珍しく理解を示しやがった。
 だからといって、俺は心のコンパスが示す方向を書き込まれた地図を手放すつもりは毛頭ない。あの日あの涙に唱えた願いがこんなにもあっさりと崩れ落ちるなんて、俺は嫌だ。涙で地図がフヤけたって、そっと扱えば破れることなんてないと信じたい。
「そうですか。でも、俺はもう朝比奈さんのことが好きなんです。誰にどう言われようがこの気持ちを譲るつもりはありません」
「お願い、キョンくん。このままの状態で帰ってしまうと、あなたにとってもそっちのあたしにとっても良くないの。それに、あたしの居る未来と分岐してしまう」
 たとえ分岐したとしても、今の朝比奈さん(大)がいっせーので消滅するわけじゃないんだよな? なら、そっちはそっち、こっちはこっちでお互い自分の世界に生きれば完全なるノープロブレムじゃないか。
「ダメ。それじゃ、ダメなの……。お願い、解ってキョンくん」
 解るも何も、なぜダメなのかそれについて簡易な説明すらされていないってのに、何をどう理解しろってんだ。
「で、具体的に朝比奈さんは俺たちをどうしたいんですか?」
「あたしたち時間遡行者に掛けられる禁則事項のようなものです。原理は同じ。それをあなたと幼いわたしに受けてもらいます」
 それを受けたことによってどうなるのか、そこで吐き出される結果は、やはりどう考えても一つしか思い浮かばない。
「あなたたちのその十ヶ月間の記憶を、頭の中の深いところに閉じ込めます」
 俺は特に何も言葉を発することなく、大きな朝比奈さんに背を向けて足を動かし始める。
 予想はしていたものの、それを実際に聞かされるとやはりショックは隠せなかった。
「待ってキョンくん!」
 俺の背中を追いかけて、朝比奈さん(大)が小走りでこちらへ駆け寄ってくる。
 追い付いた俺の手を掴んで、何か小さな錠剤を俺の手に握らせた。なんだこれは。
「副作用の全く無い睡眠薬。その時にこれで……」
 俺は無言で朝比奈さんに背を向け、再び足を進める。
「今すぐとは言わないから。明日の夜九時にあの公園で待ってます。酷だけど、それまでに心の準備をしておいて。そっちのあたしには、もう未来からの指令が届いていると思うわ。……だから」
 もういい。
「キョンくん、解って……」
 それっきり、もう俺の耳に艶掛かった朝比奈さんの言葉が届くことはなかった。朝比奈さん自身は、加えて何か言葉を発していたのかもしれないが、俺がそれを耳で受け止められる状態ではなかった。
 実際には、いつもと比べて別段暗いわけではないと思うのだが、家へ続く夜道がやたらと暗闇に包まれているように感じる。シーラカンスの住処だって、これよりはもうちょっと光が射しているに違いない。
 そうして、視覚的にも精神的にも深海に沈められた俺は、その水圧で重くなった体を引きずるようにして自宅のオンボロアパートを目指していた。
 肩にポツンと小粒の水滴が当たる。
 降り出す前に玄関をくぐれそうな予感は、やっぱり当たらなかった。








 季節に似合わずさほど大気中に水分が含まれていないのか、今や健康的と言えなくもない俺の肌に大して汗は浮かんでこない。梅雨らしさ全開の昨日とはうって変わって、今日の空はヤケにご機嫌さまである。
 おかげで紫外線というお天道様の不可視攻撃を直撃している俺と朝比奈さんは、
「……暑いです」
「……言わないでください、朝比奈さん」
 この時期にひたすら伸びるツル植物とは対照的に、今にも萎びてヘタりそうである。
 口に出して言ってしまうと余計に暑く感じるという誰もが知りうる法則ですら、未来では通用しないのだろうか。何か画期的な方法が未来にあるのだとすれば、ぜひともこっちにその情報をもたらして頂きたいもんだ。
「言っちゃうと余計に暑くなるのは解ってるんだけど、つい……」
 なんだ、そこはやっぱり未来も今も同じなのか。
「あのぉ、どうせなら、もっと暑くなっちゃいません?」
「えーとですね、それは一体どういう意味で」
 熟れた林檎のような顔色を俺に見せまいとしているのか、視線をアスファルトに固定しつつ、朝比奈さんは俺と隣接している側の手をやたらとモジモジさせている。
 なるほどね。この期に及んでなんて初々しいお方だ。
 その意図を瞬時に掴んだ俺は、サッとその手を取って握ってやる。お互いの指を交互に絡ませ、二人して握り合う。いわゆる恋人握りというやつだ。
「……ん」
 スローに俺の顔を見上げた朝比奈さんは、まどろむように目を細めて小さく笑う。
 俺の視野で縁取ったその笑顔の周りは、逆光のせいか綺麗な紗が掛かって俺の目に写っていた。光のイリュージョン。どこの最前席よりも間近で見られるマジックショー。タネが解ってしまっても、ずっと見ていたいと思うね。
「ちょっとだけ、贅沢しちゃおうと思うんだけど」
 俺が危うくイリュージョンの虜になりかけていると、朝比奈さんが珍しくそんなことを提案してきた。
「贅沢、ですか?」
「はい。冷たい物でも食べようかなぁって」
 それだけで贅沢になるような世の中だとすれば、もうファミレスですら自動ドアをくぐったところでノーネクタイなら門前払いだろう。ドアをくぐった後で門前払いってのも妙な言い回しだが。
「ははは、いいですね。じゃあ、あそこのコンビニに、」
「え? コンビニ……ですか?」


 そのあと俺と朝比奈さんが辿り着いたのは、男同士なら間違いなく場違いであろう小洒落たカフェだった。
 とりあえず、贅沢と聞いてまずコンビニが浮かんだ俺は、どうやら貯金箱をいつまでも割れないタイプの人間だったらしい。女の子らしいのは朝比奈さんだが、女々しいのは俺の方だな。
 とにかく世知辛い人間性が露呈された俺の対面で、朝比奈さんはバニラアイスをメインに用いたスイーツを召し上がっていらっしゃる。
「キョンくんは、それだけでいいの?」
 コースターに水滴を染み込ませているアイスコーヒーの入ったグラスに目線をやりつつ、朝比奈さんは問い掛けてくる。
「ええ。今一番、口にしたいのがこれですから」
 これは別に遠慮しているわけではなく、俺が欲していた物は本当にアイスコーヒーだっただけだ。うむ、アルミ缶に閉じ込められているものとは雲泥の差。久々のコーヒーの味に感動を覚えるね。
「なんだか、悪いなぁ。わたしだけこんな……」
 朝比奈さんの幸せ顔が拝めることを考慮すれば、コーヒーはおろか都会の水道水でもお釣りがくるほど贅沢ってもんです。
「ええっ。それ、水道水なんですかぁ!?」
「いや、あの、どう考えても水道水にしては黒すぎると……」
 未来の都会ってのは、上水道ですらこれほどまでに汚染が進行しているのだろうか。いよいよ俺にとっても環境問題が余所ごとでは済まされなくなってきた。頑張れ地球。
 しかし、このまま環境ISOの取得に向かうのもなんなので、俺は別の話題を振ることにした。
「それにしても、朝比奈さんの方からこんな店に入ろうなんて、珍しいですね」
 どうやら変える話題の方向性が悪かったのかもしれない。
「だって、これでもう……」
 朝比奈さんは俯いて表情を曇らせるが、数瞬後には自分を咎めるように小さく首を振り、柔らかなエンジェルスマイルを取り戻す。
「ううん、なんでもないの。気にしないでくださいっ」
 そう言われると余計に気にしてしまうのが人間の性ってもんなんだろうが、なぜか俺はそれを気に掛けることを放棄していた。
 しばらく他愛も無い会話を続けていると、気付けば街灯が虫たちを呼び寄せているような頃合を時計の針は指している。ちょっと長居しすぎたかもしれないが、まあ店内はさほど混んでいる様子でもなし、モラルに反することでもないだろう。
 伝票の取り合い合戦を征した朝比奈さんの小さな背中を眺めつつ、さてこれからどうしたものかと頭の予定表を捲っていると、
「なんかあそこ、チカチカしてるな」
「え、どこですか?」
 近くの小学校のグラウンドだろうか。何かあそこで光を発している様子が窺える。
「花火か。あそこの児童たちが校内に忍び込んでいるんだな、きっと」
「わぁ、楽しそう」
 そんなことを言われると、次に発する言葉はこれしか無いに決まってるだろ?
「俺たちも、ちょっと忍び込んじゃいましょうか」


 キャッキャ喚きながら危なっかしい手付きで火を点ける子供たちにヒヤヒヤしつつも、俺と朝比奈さんは校舎からグラウンドへ渡す石段に陣取って、それを眺めている。
 夏祭りの花火大会には遠く及ばない規模なのはもちろんだが、それでも手持ち花火ってのは趣があっていい。最近の小賢しいガキたちも、こういう時ばかりは無邪気な顔を見せてくれるもんだ。
「いいなぁ」
 夜の暗闇のせいか宇宙を連想させる広い校庭に、子供たちが小さな流星群を絶え間なく降り注がせる。それが夜空とシンクロして空の境界線が曖昧になっているようで、なんとも幻想的な光景を生み出していた。
 まあ、そんなグラウンドに出現したプラネタリウムに魅入っている朝比奈さんの横顔だって、それに引けを取らない煌きを放っていると思うけどな。
 その横に並ぶ俺は、どちらに見惚れるべきか一瞬戸惑ったあと、けっきょく見慣れた横顔に心を奪われることにした。毎日見てるし、これからも見続けていくつもりなのに、なんでだろうね。
 俺が人間に芽生えた帰巣本能について思考を巡らせていると、俺の視線に気付いた朝比奈さんが控えめに小さく微笑みかけてくる。
 そんなモデストリー精神を抱えたところが大好きなのだが、俺だってどっちかというとその部類。これじゃあ、いつになったら次の恋愛的ステップに進めるのか解ったもんじゃない。こうして結婚の高年齢化は進んでいくのだろうか。
 ここで一歩前に踏み出そうと、俺は傍にある温かい肩に自分の肩を寄せ、甘い香りの髪に頬を付ける。
「キョンくん。十ヶ月間あたしと居てくれて、ありがとう」
 喋った時の振動が、朝比奈さんの頭を介して俺の頬に伝わってくるのが心地良い。
「何言ってるんですか。これからもずっと一緒なんですから、そういうのは死が二人を別つ時までとっておいてください」
 そうだ。俺と朝比奈さんには、次の扉がまだいくつも残ってるんだからな。
「そろそろ……時間。行きましょう、キョンくん」
 ここは聞こえない素振りをしていたいところだが、こんなに間近に居れば、そういうわけにもいかない。
「どこへですか? 場所によっては、俺は行きません」
「あの公園です」
 どうしてだ。なぜそんな所に行く必要がある。そこへ足を踏み入れると何が俺と朝比奈さんを待ち受けているのか、それは朝比奈さんも知ってるんですよね?
 ずっと一緒に居たいって気持ちは、俺も朝比奈さんも同じだったんじゃないのか? 結局、単なる俺の自意識過剰だったってオチかよ。
「キョンくん。キョンくんがあたしのことを、好きだ、って言ってくれた時、あたしはすごくすごく嬉しかった。ほんとに夢みたいでした。あたしも、ずっと一緒に居たいと思いました」
 その時に言ったとおり、俺だってその気持ちは同じです。
「でも、それは許されないことだって解ってました。だから、その時にね、もう心に決めたの」
 決めたって、何を。
「キョンくん。あなたがこの十ヶ月を忘れることになっても、あたしはこれからもずっと、この十ヶ月を、あなたを想っていますから」
 ちょっと待ってください。それは一体どういう、
「未来の指令に背いちゃうことになるし、このままのあたしだと涼宮さんとうまくやっていけないと思うし、だからきっと、もうあたしはSOS団に戻ることは出来ません。けど、大丈夫です。未来からは別の人がそっちに行くと思うから」
 待ってくれ。
「キョンくんにとっては、こうしてあたしと一緒に居ることが一番良いことじゃないの」
「待ってください! 俺は朝比奈さんのことを忘れるつもりなんて、これっぽっちも無いし、それに、そんなことをしたら朝比奈さんはどうなるんですか! せっかく今まで偉くなるために頑張ってきたってのに、これじゃあ、」
 そうだった。俺は今まで、肝心なことをすっとばしていた。
 たとえ俺がこの十ヶ月を忘れようが忘れまいが、朝比奈さんに住み着いた今の俺への気持ちは、朝比奈さん(大)への進化の道を閉ざしてしまう可能性が高い。
 朝比奈さんが今まで育ててきた努力の実を、俺は何も考えずに虫食み続けてきたんだ。
 ずっと一緒に居てください、なんて言葉、それは結局俺が自分のことしか考えてなかった証拠じゃないか。
 そんで、朝比奈さんの葛藤なんてこれっぽっちも考えずに、一人でのうのうと幸せ気分に浸って、どうせ未来へ帰るのなんて当分は先のことだろうなんて楽観視して。
 いや、楽観視じゃない。ただ逃げていただけなんだ。朝比奈さんが現実と向き合っている間、俺は知らないフリをしていただけなのかもしれない。
 つまり俺は自分の都合で、想い人の将来を摘み取ろうとしていたんだ。
 とんだ最低野郎じゃないか。ゴールデンラズベリー賞総ナメも夢じゃないノンフィクションだ。
 でも、俺はやっぱりこの人が大好きなんだ。最後の最後でアカデミー賞へのどんでん返しを目指す。だから、
「朝比奈さん。あなたにとってこの十ヶ月の記憶は、これから先、きっと邪魔になるし辛いものになるかもしれない。朝比奈さんにだけそんな思いをさせるなんて、俺はしたくない」
 そんなことを言い始めた俺を、朝比奈さんは不思議顔で見つめる。
「だから、やっぱり行きましょう。あの公園へ。それで、二人で終わらせましょう。今の俺たちを」
 そして、キャリア組も真っ青な出世劇を俺に見せてください。
「……ダメ。そんなのダメです! あたしが忘れちゃったら、この十ヶ月が本当に無かったことになっちゃいます!」
 大きい方の朝比奈さんが、ずっと覚えていてくれるさ。つまりあと何年かすれば、朝比奈さん自身が知ることになるから心配ない。二人が紡いだ、このかけがえのない時間たちをさ。
「お願い、考え直してキョンくん。あなただって、この十ヶ月が無かったことになるなんて、嫌ですよね!?」
 嫌じゃないと言えば嘘になりますが、それよりも大事なものに今さっき気付いてしまったもんで。それに、
「俺が忘れてるってのに朝比奈さんだけが覚えてるなんて、そんなの悔しいじゃないですか。だから、これは俺からのお願いです」
 その言葉と共に、俺は俺の大好きな人に手を差し出す。
「俺と一緒に、同じ道を歩んでください」
 まるでプロポーズとも取れるその言葉とは裏腹に、別れの時計はひどく大きなアラームを鳴らしている。
 少なくとも、チャペルで奏でる祝福のベルとは似ても似つかない音だった。


 公園までの道のりを無言で進んでいたせいか、握った手の感触に意識が集中してしまって、何か少し気恥ずかしくなってくる。それが付き合い始めの初々しい気持ちを少し取り戻したようで、ちょっとこそばゆい。
 ふと隣に目をやると、決意を固めたのか引き締めた顔で足を進める朝比奈さんの姿が俺の網膜を覆う。その姿は小さくも凛とした大人の女性で、あの大きな朝比奈さんと同一人物だという事実を、改めて俺に実感させるには充分だった。
 そんな当然のことを考えながら、裸足の子供に優しい程度に丸みを帯びた公園の小石を靴底に確かめつつ、俺と朝比奈さんは足を止める。人影はまだ見当たらない。
「俺と朝比奈さんは、ここで間違いなく足跡を残しました」
 いっときの夕立で消されてしまうほどの、薄い足跡。でも、
「これは実際の出来事なんです。夢じゃない。砂嵐が足跡を吹き飛ばしたとしても、その足跡がさっきまでそこにあったことは事実なんです。誰も覚えてなくたって、確かにあった事実を消されるわけじゃない」
 俺はデニムのポケットに手を突っ込み、例の錠剤を指で確認する。
「だから、そんな顔しないでください。俺が大好きなのは、笑顔の朝比奈さんなんですから」
 朝比奈さんのエンジェルスマイルがどこまでも健在なら、俺もきっと最後まで暑苦しい笑顔を撒き散らしてやるさ。
「……キョンくん」
 この十ヶ月で何度も何度も朝比奈さんの口から聞いた、呼ばれ慣れ過ぎて今や愛着すら湧いてきた俺のそのニックネームを、朝比奈さんは包むように柔らかく呟き、
「ほんとのこと言うとね、ここに来る前から、あ、ここっていうのはこの四年前の時間平面上のことね。その、ここに来る前からキョンくんのこと、あの、ええと、少し好きでした……」
 ……マジですか。
 そういうことなら、もっと普段から敏感にアンテナを張り巡らせておくんだったぜ。相変わらずこの手の感性が不十分な自分をなんとかしたい。
「あ、でも、今みたいにこんなにも想うようになったのは、一緒に暮らし始めてから。それに、ここに来てから最初の頃は全然そんな余裕が有りませんでしたし。うふ、なんだか一年も経ってないのに、とても昔のことみたい」
 最初は俺だってそれどころじゃなかったさ。気を抜いたりなんてすれば、それこそ衣食住の内のどれかがいつ欠けてもおかしくはなかったからな。
「そうだなぁ。不安で不安で、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって、良くないことばかり考えてました」
 いたって正常な反応ですよ。あの状況に置かれて、ネガティブな思考に至らない方がおかしい。
「でも、キョンくんはちゃんと頑張ってて、だからあたしも頑張らなきゃって。隣にキョンくんの姿を見て、何度もホッとして」
 俺だって、朝比奈さんの横顔に何度救われたことか。
「一ヶ月くらいが過ぎた頃かな。少し余裕が出てきたその辺りからは、とっても楽しかったです。きっと、そうですね。それくらいから、十ヶ月経つのが少しずつ怖くなってきたのかも」
 なんだ、俺と一緒じゃないか。
「だから、そんな気持ちだったから、キョンくんの好きだ、って言葉を聞いた時は、もうとっても嬉しくて、涙が出るほど嬉しくて、さっきも言ったけど覚悟の上でキョンくんとの関係と選びました」
 透き通った瞳を潤ませて、頬を染めながら朝比奈さんは口を小さく動かす。
「ごめんなさい。こうなることを解っていたのに、期待を持たせるようなことをして……」
 謝る必要なんてありません。
 俺だって逆の立場ならそうしていただろうし、何よりこの十ヶ月を振り返ってみると、本当に幸せだったと思いますし。それこそ、これから先の人生で味わうことになる幸せ成分を全部詰め込んだくらい幸せでした。
「あたしも本当に幸せでした。楽しかったことや嬉しかったことがいっぱいで、流石に全部思い出せないなぁ。えへ、キョンくんに色々買ってもらっちゃったりとかもしましたね」
 色々っつっても、俺の小遣いからの出費は木製人形と靴だけですけどね。
「そのくるみ割り人形なんですけど、あの、ちょっとしたイタズラで手放しちゃったの……」
 ちょっとしたイタズラ?
「はい。今のわたしに出来る、精一杯のイタズラ。ごめんなさい……」
 いえいえ、あんなのいつだって買える代物ですから気にしないでください。それに俺が買ったとはいえ、朝比奈さんの物に違いないんですから、朝比奈さんの好きにしてもらって構いません。
「よかった」
 呟くような安堵の言葉と共に、朝比奈さんはその少ない体重をゆっくりと俺の胸に預けてくる。涼しい夜風に映えるその体温がとても心地良く、まるで俺の決心を揺るがせようとしているようだった。
 いっそ本当に、このままどこかへ逃げてやろうか。
「キョンくん、今までありがとう」
「何言ってるんですか。やめてください。それじゃあ今生の別れみたいですよ、朝比奈さん」
 たとえ二人の思い出が脳裏から消え去ったとしても、これからもずっと会えることに変わりは無いんですから。
 そうだな、考えようによっちゃあ、あのドキドキをまた一から味わう事ができるかもしれないんだからな。それはそれでアリなのかもしれん。人生で二度も初恋を体験できるなんて、そうそう有るもんじゃない。
「キョンくん」
 今度はハキハキと、だがとても柔らかい口調で、朝比奈さんは俺のあだ名を声にする。
「わたしはこの時代の人間ではありません。もっと、未来から来ました」
 ええ、だから俺たちはこうして、
「いつ、どの時間平面からここに来たのかは言えません。言いたくても言えないんです。過去人に未来のことを伝えるのは厳重に制限されていて、わたしたち時間遡行者は、必要以上の言動は強制暗示によってブロックが掛かるんです」
 それも、ずいぶん前に聞きました。
「でも、必要以上のことなのに、こんなことは言えちゃうの。キョンくん、」
 潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を捉えて、朝比奈さんは今日一番の微笑みを零し、


「大好き」


 とびっきりの笑顔を涙が伝うその光景は、下手な夜景よりよっぽど輝いていた。
 例の錠剤をジーンズのポケットから取り出し、それを握り締めたまま、俺は小さな背中を自分の胸に抱き寄せた。
 離したくない。でも、こんなにも好きだからこそ、俺は決めたんだ。この人のあるべき将来を奪わないために。
「朝比奈さん。これからも、頑張ってください」
 片手で背中を抱いたまま、俺は握っていた小粒の錠剤を朝比奈さんの口へと運ぶ。
 一瞬怯んだ朝比奈さんだったが、その錠剤を目にしてそれが何なのかを理解したのか、すんなりと俺の指先を自分の口元へと受け入れた。
 それでも笑顔を崩さない朝比奈さんに応えて、俺も精一杯の笑顔を試みる。
 錆び付いた街灯が上手く笑えていない俺を見兼ねたのか、その街灯は朝比奈さんに逆光ビームを浴びせていて、それが引きつった笑顔を少し誤魔化してくれているのが心強い。
 なんというか、これは夢じゃないなんて自分で言っておきながらなんだが、まさに夢のような十ヶ月だったな。あっという間だったように感じられるが、九十分サイクルのレム睡眠にしちゃあ、あまりにも長すぎたくらいだ。
 だったら夢なら夢らしく、ここらで潮時を迎えるのが妥当なんだろうさ。
 そろそろ目覚まし時計がやかましく鳴り響いて、ベッドから叩き起こされるに違いない。けど、今が夢ならそれはあって然るべき、当然のことだ。現実は常に厳しい。
「……キョン、くん」
 いよいよ薬の効果が目に見え始めた。
 朝比奈さんの瞼はトロンと半開きになり、俺の胸に添えられている手から力が抜けていくのが判る。
 せめて朝比奈さんが眠るまで、心の中で団旗を振り続けてやろう。生まれ変わって頑張る朝比奈さんへのエールだ。
「この時代で、俺はずっと応援してますから」
 なんなら長門に頼んで、皆で団旗を抱えてそっちへ応援に行ってもいい。
「……嫌」
 え?
「……やっぱり、嫌。忘れたく……ない。忘……れたく……」
 眠気に必死に抵抗している朝比奈さんの唇は、真冬かと思わせるほどに痙攣していた。
「……朝比奈さん」
「忘れ……たく、ない。怖……い……、助……けて、キョ……くん……助けて……よぅ」
「朝比……朝比奈さん!!」
 俺は胸の前にある小さな手をギュッと掴む。掴んでみると、大きく震えているのが解る。
「朝比奈さん! 吐き出してください! 無理してでも吐き出してください! そんで、二人で遠くへ逃げましょう!」
 やっぱり、こんなの許さねえ。
 なんで俺たちなんだ。なんでこんな目に遭うのが俺と朝比奈さんなんだよ!
 他に居るだろうが。もっとこんな目に遭って然るべき奴が世の中に居るだろうが!
「朝比奈さん、出来ますか!? 無理なら、口の中に手入れますから! 朝比奈さん!」
 朝比奈さんは残った気力を振り絞るように、震えながら俺の頬に手を伸ばす。
 僅かに動く唇から発せられる言葉は、もう小さ過ぎて俺の耳には届かない。
 頬に感じる手から力が失われていく。まるで俺の頬がゴールといわんばかりに。
 そして、瞳を閉じて崩れ落ちた幼いシンデレラは、十二時の鐘と共に魔法のドレスを脱ぎ去った。
 幾筋もの涙の跡を、その顔に残して。
 けど、そこにあったのは笑顔。
 チラつく街灯にかき消されるほどの、蛍よりかは少しばかり明るい安らかな笑顔だった。




 しばらく立ち尽くしていた俺は、真っ白の頭に色を取り戻そうと気を入れ直す。
 そして、おそらく辺りで息を潜めているであろう人物に声を掛ける。
「朝比奈さん、居るんですよね。出てきてください」
 近くの茂みから葉擦れの音が聞こえて、その人物は俺に姿を見せた。
 だが、
「……うう、うぐっ、ひぐっ」
 隠れている間ずっと涙を堪えていたのか、俺に姿を見せた途端に嗚咽を漏らし出した。
「……見てられない。こんなの、見てられないよぅ……」
 イヤイヤと首を横に振り、その瞳からは湧き水のように涙が溢れている。
 色々成長しても、泣き方は幼い朝比奈さんと全く変わらないな。そういや、大きい朝比奈さんの泣き顔は初めて見たかもしれん。
「朝比奈さん、最後の仕上げはあなたの仕事です。ほら、早くしないと逃げるかもしれませんよ俺」
 朝比奈さんは何か俺に言っているようだが、嗚咽が入り混じっていて言葉になっていない。
 仕方ない。最後も俺自身の手でケリを付けてやるか。
「睡眠薬、まだあります?」
 俺の質問が聞こえたようで、朝比奈さんはおもむろに手を動かすが、何かに気付いたように動きを止めて、
「……ダメ、です。そこまでしなくても……」
 嗚咽を堪えながら、朝比奈さんは俺の要求を却下。
 けど、さっきの動きで解っちまった。薬はスカートのポケットだ。
「……そうですか」
 と、言いつつ俺は朝比奈さんにゆっくりと歩み寄る。今からスリ紛いの行動に出るだけに、頭の中は後ろめたさ全開で、それが顔に出ていないか心配だ。
 けど、やっぱり朝比奈さんは朝比奈さん。そんな俺の心配を他所に、なんなくポケットから錠剤の奪取に成功。まあ、泣くのに精一杯で他のことに干渉する余裕があまり無かったんだろう。
「ダ、ダメっ。キョンくんっ」
 朝比奈さんは慌てて俺の手から奪い返そうとするが、そこは俺に適うはずもなく、
「朝比奈さん。あなたにとっても、この出来事を鮮明に覚えておくことはきっと辛いでしょう。忘れていいとは言いませんが、ちょこっとだけ頭の片隅に置いといてくれれば、それで俺は満足です」
「……キョンくん」
 そうさ。当事者である俺と俺の朝比奈さんが覚えていないのなら、これは誰を幸せにするでもない歴史だ。
 もちろん誰かに覚えておいて欲しいことに変わりは無いが、それによって誰かが辛い思いをするのなら、こだわる必要は無い。
「後は頼みましたよ。じゃあまた、SOS団団員その一である俺に会いに来てやってください」
 焼肉後の口にガムを放り込むくらいの何気なさで、俺はあっさりと錠剤を口に放り込んだ。
「キョンくん、キョンくん! ダメっ!」
 やがて薬が体に回り始め、俺は地面に膝を付く。
 遠のく意識の中で、華麗なシルエットがこちらへ近寄ってくるのが見えた。
「ぐすっ、キョンくん、ダメ、こんなの、こんなのって……」
 だが、そのシルエットから覗く表情はくしゃくしゃに崩れていて、だから俺は、
「笑顔……で、お願い……します」
 今の俺にとっちゃあ、最後のお願いってやつさ。
 大きく頷いて見せた朝比奈さんは、長い瞬きで涙を止めたあと、
「はい」
 いつかに見た、見る者すべてを恋に落としそうな笑顔を見せてくれた。
 俺の瞳は最後に、目の前の笑顔と静かに眠った笑顔の二つを、ずっと写し続けていた。







                       次へ