数時間前。どこかの家庭。

 夕飯までの時間的に中途半端な空きを、俺は読み散らかした漫画風呂のベッドで悶々と過ごしていた。
 特に何をしているでもなく、よって部屋の中は静寂に包まれており、辺りから発せられる色々な音が鮮明に耳に届く。
 その色々な音の一部に紛れて、忙しなく階段を刻む足音が聞こえた。
「キョンくーん、郵便だよー」
 その足音の主はノックという基本マナーを躊躇なくすっとばして、俺の目の前へと駆け込む。
 郵便って、手紙か?
「わかんないけど、これー」
 そう言って、銀杏の葉サイズの手で掴んだ封筒を高々と掲げ、俺に差し出してくる。
 膨らんでいる封筒を見ると、どうやら手紙ではなさそうだ。仮に手紙が入っていたしても、それ以外にも間違いなく何か入っている。
 なんだろうか。全く心当たりがないのだが。開ける前に時限装置の音とか確認した方がいいのだろうか。
「きっとキョンくんの入学のお祝いだよー。中学生ってもう大人の仲間だもん」
 つっこみたい要素が端々に散りばめられた台詞だが、今俺は赤のコードか青のコードどっちを選ぶかで精一杯なんだ。今日のところはスルーしておいてやる。
「とにかく、お前は部屋から出て行け」
「えー、中に入ってるの見たいー」
 本能に忠実なこいつなら、外にボールを投げれば四つ足で走って拾いに出て行ってくれるだろうかとか思ったが、それはそれで兄として家族として何か悲しい。
 とりあえずなんとか説得して部屋から妹を追い出した俺は、覚悟を決めて封筒に手を掛ける。
 もちろん本当に爆弾だとは思っていなかったが、得体の知れない物が入っている可能性を無視は出来ない。封筒の口を広げて、中を目視で確認する。
 すると、俺の僅かな不安も杞憂だったようで、結局そこから出てきたものは、一枚の便箋、と木製の人形が一体。
 なんだこれは。
 便箋、はまあ解る。誰からのものかは全く予想が付かないが、手紙ということでまず間違いない。
 だが、問題はその次である。人形。はて。
 俺は別にアンティークな趣味など持っちゃいないし、宛て先の間違いじゃないのだろうか。
 しかし、俺の目が正常であるならば、封筒には我が家の住所と俺の名前がしっかりと刻まれてある。差出人の名前は見当たらない。
 あまりの不気味さに背筋を凍らせつつも、とにかく便箋を広げてみる。
 すると見覚えのない字体が俺の視界に飛び込んできた。


 『幼いあなたへ

  拝啓
.   お元気ですか?
.   私は、元気です。
              敬具
  
  あなたを想うくるみ割り人形より』


 なんだこりゃ。ますます解らなくなってきた。
 国木田あたりが仕出かした、とびっきりのジョークならまだ笑えるが、あいつはそういうキャラではない。
 うーん、どうしたものか。
「やれやれ」
 何気に年寄り臭い台詞を吐いてしまうのも、これじゃあ頷けるってもんだろうよ。
 でも、なんだろうな。文面は何か不気味なのに、この手紙からは全く嫌な感じがしない。
 しばらく手紙を眺めて、俺はそっと元通りに手紙を折り畳んだ。
 そして、その手紙と人形を、滅多に開くことの無い、机の一番下の引き出しの一番奥にそっと仕舞った。
 夕飯まではまだ時間がある。
 なぜか再度ベッドに戻る気にもなれず、俺は机に肘を付いて近所のガキたちのボール遊びをじっと眺めていた。
 そして、夕飯を呼ぶ声が俺に届く頃には、俺はもう手紙のことを忘れかけていた。








「ふう」
 外から聞こえる下校する生徒たちの話し声もひと段落つき、残るは日直や掃除当番に当たっている者がダルそうに校内に留まっている頃、俺と朝比奈さんは元の文芸部室へと舞い戻ってきた。
「キョンくん、付き合ってくれてありがとう」
 いえいえ。そういう風に、手を握って俺にお礼の言葉を述べる朝比奈さんを拝めたんですから、それだけでも充分な対価が得られたってもんです。
 いや、むしろお釣りが有り余って、俺が更に何か支払うべきかもしれん。そうだな、子供銀行の紙幣くらいなら、妹の部屋を探ればきっと束で出てくるに違いない。
「ただいま長門」
 誘われるままホイホイと時の旅路へと足を踏み込んだその時と何一つ変わらぬ様子で、文芸部室の正式保有者は淡々と文学に励んでいる。
 俺の言葉を受けて、長門は俺を一瞥し、またすぐに活字の空へと視線を羽ばたかせる。なんだかこの読書描写もそろそろ飽きてきた。
「しかし朝比奈さん。今回の指令って、一体なんだったんでしょう」
 完全にトンボ帰りだったような気がするんですが。
 四年前に行って、また直ぐに戻ってきただけ。これが仕事なら交通費すら経費で落とすのにひと苦労しそうだ。
「ふえぇ。それが、あたしもよく解らないんです。ごめんなさい……」
 ……まあ、残念ながら朝比奈さんには知らされていないだろうことは予想してたけどな。
 そんな、まだ空を飛ぶほどに羽を上手く使えない幼いエンジェルの憂うべき身分に慈愛の心を抱きつつ、俺は一つ気に掛かっていたことを思い出した。
「そういえば長門、あのあとハルヒはどうだったんだ?」
 そうだった。俺と朝比奈さんがここから消える徹底的瞬間を、あのハルヒに目撃されたかもしれない。
「大丈夫。特に問題は無い」
 問題ない、って。見られたんだとしたらマズいだろ。
「涼宮ハルヒがあなたたちを目視できた時間は、人間には残像程度としか認識できないほど僅かなもの」
「やっぱり、一応は見られたのか。変な勘ぐりをしてなければいいが」
「大丈夫」
 まあ、長門がそこまで言うのであれば、ずいぶんと安心できる。今やこいつのお墨付きとあらば、俺は天動説を唱えられたところで易々と信じてしまうだろうからな。
「そうか、なら良かった。で、そのハルヒはどこへ行ったんだ?」
 だが、流石の長門も全知とはいかないらしく、この質問には俺と目を合わせて僅かに首を傾げる。
 まあいい。どうせまた日本中のコロッケをカレーコロッケに変えるくらい、くだらないことを企んでいるんだろうよ。
「あ、あのぅ。ほんの一瞬でも、涼宮さんが見たのって、わたしとキョンくんが手を繋いでい、」
 こうして朝比奈さんが折角おしゃっているお言葉を、俺は一言一句聞き逃すまいと耳を傾けていたさなか。どこのどいつだか知らんがそれを遮る輩がいたようで、
「あー、なんか今日はムカつくわ。とっととミーティングして終わらせるわよ」
 扉をやかましく開いて登場するなり文句を垂らしながら、我らが長はムスッとした顔と共に大股で部室内へ入り込んでくる。濁点だらけの擬音が今にも聞こえてきそうだ。
「なんだ。何か気に入らないことでもあったか」
 こいつの不機嫌オーラは定期的にやってくるからな。今やすっかり慣れちまった。今回はおおかたコロッケが天カスにでも変わっちまったんだろうよ。それが晩飯のメインディシュだったんなら少しは同情してやらんこともないぞ。
「違うわよ。ていうか、どこからコロッケが出てくんのよ」
 まるで他所の子の愚行を遠目で見る近所のおばさんのような視線を俺に向けつつ、ハルヒは肩肘を付いて否定してきた。
「じゃあ、なんなんだよ」
「幻覚よ幻覚。なんか一瞬、とてつもなくくだらない幻覚が見えたのよ。あー、気分悪いわ。いよいよあたしも末期に違いないわ」
 何の末期だ。
「なんか、部室だとまた幻覚が見えそうでイライラするわ。場所変えてミーティングしましょ。いいわよね」
 そう提案したらしっぱなしで、俺たちの返事を聞くまでもなく一人で部室を出ようとするハルヒ。
「ちょっと待て。ミーティングするのは構わんが、一体なんのミーティングだ」
「今ミーティングっていったらツーリング以外の何があんのよ。嫌なら、あんたは一人でひたすらボルトにワッシャーでも付けてなさい」
 地味な作業だなおい。せめて賃金はどこから発生するのか、はっきりさせておいてくれ。
 そんな労働の対価を求める俺の叫びも虚しく、ハルヒは今度こそ部室をあとにする。
「おや、今日は外出でしたっけ」
 部室から出ようとするハルヒと出会い頭に衝突しそうになりつつ、ようやく古泉が姿を現した。
「こないだ決まった鶴屋家別荘への自転車ツーリングのミーティングよ。古泉くんも来てちょうだい」
「そうですか。では、参りましょう」
 ミーティングと聞いて外出することに一切つっこまない古泉だが、こちらもそんな古泉に今更つっこむ気も起こらず、こうしてめでたく出張ミーティングが行われることになった。
 朝比奈さんもハルヒのあとに次いで部室を出ようと扉に向かったところで、俺も席を立つ。だが、
「長門、行くぞ」
 今だ本を閉じてなかった長門が、俺の呼び掛けを受けてか一瞬こちらに視線を送ってから、ようやく本を閉じる。
「どうしたんだ、えらくゆっくりだな。置いてけぼり食らうぞ」
 先程までは本に隠れて見えなかったが、その本の下敷きにしていた方の長門の手には、何か小さな人形のような物が握られている。
「安心して。終わったわけではない」
「何がだ?」
「まだ始まったばかり」
「だから何がだ」
 長門は俺の質問には答えず、音も無く立ち上がり音も無くこちらへやってくる。もうこれは忍び足というか、たぶん数ミリくらい地面から浮いているんじゃないだろうか。こいつならやりかねない。
「これはもう、あなたが持っていた方がいい」
 そう言って、身長を数ミリほどサバ読みしているかもしれない長門が、握っている人形を俺に差し出してきた。
「どうしたんだこの人形」
「転移するには媒介が必要。その媒体としてこれが非常に適切だった。だからそれに使用した」
 ……すまんが俺は暗号の類はあまり得意じゃないんだ長門。
「とにかく俺たちも行こう。マジで置いてかれちまう」
 長門が放った意味深な言葉を気に掛けつつも、俺たちはハルヒのあとを追って部室を出た。




 ツーリングの目的地が鶴屋家の別荘ということもあって、ハルヒは今日の独演会に鶴屋さんも誘っていたらしい。
 どちらか一人の時よりハイテンション二乗増しのハルヒ鶴屋コンビの笑い声をBGMに、辿り着いたのは結局いつもの喫茶店である。
「あっこまでは、けっこう長い道のりだかんねっ。着いた頃にはお腹ペコペコだと思うから、美味いもんいっぱい用意して待っとくよっ」
 レモンティーに突き刺さったストローを指でつつきながら、鶴屋さんは皆の顔を順番に見て言う。
「楽しみにしてるわ。さあ、これでいよいよ急がないわけにはいかなくなったわよみんな。絶品料理が冷めないように、超特急でペダルを漕ぐつもりだから遅れないようにしなさい!」
 完全にツーリングの趣旨を間違った方向に持っていってるな、こいつは。ツーリングってのは普通、自転車やバイクでの移動自体を楽しむものじゃないのか。
 まあ、確かに鶴屋さんの用意してくれる、美味いもん、ってのはかなり期待できる。俺なんかだと、普通に生きていれば一生に一度出くわすことが出来ればいいくらいの上物が出てくるのかもしれない。
「あっははっ。こりゃあ、みくるは頑張らないと置いてかれて迷子だねっ。なんならみくる専用の先導バイクでも付けるかい?」
「ええっ。あああたし頑張りますから、大丈夫ですっ」
 朝比奈さんの慌てる姿を見て、鶴屋さんは笑い転げている。一体この人のツボはどれだけあるのだろうか。本当に色々と計り知れないお方だ。
「そういや長門。お前、自転車持ってんのか?」
「持っていない」
「……やっぱりか。そういうことは早めに言わないとだな」
「そういうことでしたら、僕の知り合いにリサイクルショップを経営している方が居ますので、無料で貸してもらえるよう頼んでみましょう」
「何? 有希、自転車持ってなかったの?」 
 こうして、おそらく鶴屋さんのおかげかいつの間にかハルヒも機嫌を取り戻し、しばらく和やかなムードで話し合いは進んでいた。流石は鶴屋さんである。
 だが、
「…………」
 俺たちの隣に陣取った二人の男女客が、再びハルヒの機嫌を損ねてしまったようである。
 その二人は対面ではなく隣同士で腰を下ろし、要するに世間一般で言うバカップルというやつだ。
「何、あれ」
 ピンク色のオーラがこっちにもユラユラと漂ってきて、お冷が今にもピーチジュースに変わりそうな勢いである。そういや、水をビールに変えるマジックならテレビで見た記憶があるな。
「いちいち気にするなハルヒ。隣は隣、俺たちは俺たちだ」
 そうは言ってみたものの、確かにあれは目に毒だ。こっちまで恥ずかしくなってくる。
 イヤらしい感じは全くしないのだが、二人とも頬を赤らめる場面がやたらと多く、あまりにも初々しくてピュアというか、なんか自分の汚れ具合に気が滅入りそうになってくるな、これは。
「ふえぇ……」
 恥ずかしくなってきたのか顔を俯けている朝比奈さんとは正反対に、長門は毛穴の数まで観察するかのように、その二人をジッと眺めている。
 で、一人でずっと笑いを堪えている様子なのが鶴屋さん。
「くく……あ、あたしはもうすぐ親戚の集まりに行かないとダメなんだっ。だから今日はこれでおいとまさせてもらうとすっかなっ」
「そう。じゃあまたね鶴屋さん」
 絶対笑いを堪え切れずに逃げたなあの人。
「まだ喉が渇くわね! グレープフルーツジュースちょうだい!」
 ハルヒの不機嫌は絶好調のようで、自分の分のオレンジジュースを一気に啜り上げ、ドンッと音を立ててグラスを置き、大声で店員に叫ぶ。
「なんだ、足りないんなら俺の分やるぞ」
「いらないわよ、あんたの唾入りなんか」
 俺の弁当は平気で食うくせに、よくわからん奴だ。
「……まあ、いいわ。もらってあげる」
 と言って、けっきょく俺からグラスを奪い取りストローに口を付けるハルヒ。どっちなんだよ、まったく。
 それは置いといてだ。
「……おい、なんで顔を赤くしてんだ。俺まで恥ずかしくなるだろうが」
 そして黙るな。何を意識してるのかこいつは、妙なところで変な反応しやがる。
 ほれ、追加のグレープフルーツジュースが到着したぞ。
「う、うるさいわね! 返すわよ! 自分で飲みたかったんなら、あげるなんて言うんじゃないわよ!」
 持っていたグラスを俺に突き返し、新しく現れたグラスをむんずと掴んで、ハルヒはまたもや一気に啜り出す。
 フンと横を向いてストローを吸うハルヒの横顔は、肩口で揃えられた髪で表情が隠れていた。
「けっこう減ってるなおい」
 氷が溶けて薄められたジュースの味が、なぜか俺には妙に美味く感じた。








 あはは、やっぱハルにゃんたちはおもろいねっ。あん時の空気ったらなかったよっ。
 これはダメだっ。思い出したらまた笑いそうになっちゃうね。
「くくくっ」
 けっきょく街中で思い出し笑いをしていまい、あたしはちょびっとだけ周りの注目を浴びる。
 やっちゃったねぇ。けど、たまにはこういうのも逆に清々しい気がするからオールオッケーっさ。
 髪を風と遊ばせながら、家への道のりをあたしは軽快に進んでいく。そろそろ、少し髪を切ってもいい頃かもしんないね。今度の休みあたりにでも、あのおもろい美容師さんを呼ぶとすっかなっ。
「おんや?」
 いつの間にかあたしの数十メートルほど先に、二つの人影が見えている。
 あれは、
「おーいっ! みくるとキョ……」
 いや、違うねっ。人違いだっ。
 よく見ると全然違うよ。っていうか前の二人、さっきのカップルじゃないかっ。
 あはは、バカだねあたしは。あの二人が手を繋いで歩いてるなんて、ありえないのにさっ。
 でも、なんでだろーねぇ。顔も服装も全然似てないのに、なんであの二人と間違えたのかぜんっぜんわかんないよっ。こりゃ傑作だっ。
「うーん」
 にしても、どうすっかなあ。こっち振り返っちゃってるよあのカップル。
 よし、決めたっ。今日は赤っ恥デーだっ。さっきの思い出し笑いのついでに、思いっきり赤っ恥掻いてみるとすっかなっ。
 心を決めたあたしは、大きく息を吸い込んで、
「おーいっ! みくるとキョンくんっ!」
 ちょっと強めの風に押されながら、二人のもとへと駆け足を始める。
 どうしてわざわざ近づくのかって、あたしはやるならとことんやる主義だかんね。
 だから、
 見知らぬ二人に言い訳をするために、あたしはスカートを少し押さえて駆け足をするのさっ。