そして翌日。
 いつもならこれからが寝本番だといわんばかりに熟睡中も真っ盛りな時間帯。
 なんと俺は起きていたと言ってやりたいところだが、そこはやっぱり俺であり、俺であるからこその必然なわけで、早い話がつまりは寝坊である。
 何の為に昨日、誘惑にしては楷書体の印影並に淡白な長門の思い掛けない添い寝にも動じずに、わざわざ就寝時間を前にずらしたのか解ったもんじゃない。
 俺は自分の決行力の弱さに失望の意を隠しきれずも、フラフラと布団から這い出るのだった。
「おはよう、長門。早いな」
 俺が遅いだけだろとセルフでつっこみを入れつつ、俺は長門が持ってきてくれたお茶に手を掛ける。
 朝はコーヒー派なんだが、今は仮にも居候の身であり、それは贅沢が過ぎるってもんだろう。そもそも長門がコーヒーを好むようには思えんしな。
 朝比奈さんが淹れた琥珀色の液体より僅かばかり味の劣る、それでも十分美味いんだがとにかく俺はそれを飲み干し、早くも未来人探索に向かわんと玄関へと足を運んだ。


 無言で長門に見送られて家を出るという、同棲生活初日にしては端から倦怠期を予感させる刹那を堪能した俺は、まず昨日朝比奈さんとはぐれた辺りの場所へ向かう事にした。
 電車にして二駅、そう遠くもなく、かといって自転車ではちと面倒な距離である。
 そして最初に向かうべきスポットはあそこ以外にはないだろう。そう、朱色で地図に印されてあったポイント、あの錆び付いた公園だ。
 何らかのヒントが転がっているとすればまずあそこだろうし、うまくいけば大きい朝比奈さんに遭遇する可能性だって無いとは言えない。

 そんなわけで早速到着である。
 話が早いような気がしないでもないが、移動中の状況をこと細かく実況したところで、そんなもんは単なる俺の自己満足で、それ以上でも以下でもない。
 そういうのが好きだってんなら、ラジオでプロ野球でも聴けばいい。いいぞあれは。あんな一瞬の出来事を早口でリアルタイムに実況するんだから、ありゃ只者じゃないぜマジで。
 齢十六にして早くもおっさん化しつつある俺は本当に一般人なのかと自分に問い詰めつつ、公園に足を踏み入れる。
「ん? あれは」
 最初に視界に入ってきたのは、これまた思い掛けないものだった。
 ブランコを僅かに揺らし、俯き加減で鬱オーラを放っているという感情はブルーだが服の色はイエローな少女。
 間違いない。昨日のプチ家出少女だ。
 俺はゆっくりと少女に近づき、
「よ、また会ったな」
 少女は一度俺の方を見上げてまた視線を下げるという、長門ばりの仕草で返してきた。
「どうしたんだ。もしかして昨日、家に帰らず仕舞いか?」
「……ううん。帰った」
 そりゃ一安心だ。流石にこの歳で野宿を経験するにはいささか早過ぎる。いや、早くなくともそんなもん経験したくもないが。
「で、今日は朝から家出か」
 続けて俺は理由を訊き出そうと試みるが、
「…………」
 少女は押し黙ったまま俯き続けている。
 何やら訳ありっぽい雰囲気だな。立ち入り過ぎない程度に話を聞いてやるとするか。
「ふう」
 俺はゆっくりと少女に横付けする形で、隣のブランコに腰を落ち着かせた。
 まったく、昨日に引き続き俺は一体何をやってんだか。見ず知らずの少女を更正させる為にわざわざ三年もの時間を遡ったわけではないのだが、どうにも放っておけない。
 いや、そもそも何をする為にここへ来たのかも全く解らんのだが。
 これなら魔王を倒すという明確な目的がある分、おつかいロールプレイングゲームの方が幾分マシだ。
「なあ、何があったんだ? よかったら訳を話してみようじゃないか」
 少女は言うか言うまいか迷っているような感じで、ちらちらと俺の顔を窺いながら、
「……無くしたの」
 無くした?
「うん」
 うんって、述語だけじゃ解らんぞ。
 ここで少女はまたもや言うか言うまいかを迷っている仕草を見せ、やがてゆっくりと口を開き始めた。
「最近ね、お父さんとお母さんが仲良くないの。それはもう、うん、とっても……」
 親子仲ではなく、夫婦仲が原因か。
「わたしには、どっちに付いて行くか決めときなさい、とか、お母さんの方がいいわよね、とか最近そんなことばっかり……」
 ちょっとばかし俺には難しい問題だ。あまりたいしたことを言ってやれそうにないな。
 俺の家庭はそういう事態に陥ったことはないし、きっとこれからもないだろうと思う。仮に陥りかけたところで、なんとなくだが、あの無邪気な妹がうまい具合に中和剤になってくれそうな気がしなくもない。
「それでね、こないだテーブルに離婚届けが置いてあるのを見ちゃったの。そしたらわたし、もうどうすればいいのか解らなくなって……」
 俺には縁遠いものだとしても、昨今の日本の家庭事情としてはさほど珍しいものでもないのだろう。
 だが実際にこういった事情に直面しているのを目の当たりにすると、やっぱりそれは遺憾の意を表さずにはいられないし、嘆かわしい。
 こういう親は子供のことを何だと考えているのか、まったくもって理解不能である。くそ、何だか俺まで腹が立ってきた。
「離婚させないように、一緒にテーブルにあったお母さんのハンコを……持って外に出ちゃったの。そのあと……」
 無くしたのか。
「……うん」
 離婚届けの捺印に使うような印鑑。実印か。そりゃ結構な事態だな。何といっても日本は判子社会であり、実印の効果といえばそりゃもう絶大だ。
 まあ、テーブルに実印を出しっぱなしにしてしまう少女母もどうかと思うが。
「どうしよう、わたしが無くしたこと知られたら……」
 少女は今にも泣きそうな雰囲気で続ける。
「ただでさえ家の雰囲気悪いのに、これ以上……」
 確かに実印を紛失したことに関しては大いなる問題だが、それはこの少女の両親の不仲という原因あってのものだからな。
 俺にしてみれば子供の気持ちも考えない親の方も十二分に悪い。
「どの辺で無くしたのかは解らないのか?」
「たぶん、この公園だと思うの。でも、探したけど見つからない」
 丸腰での談合中に討ち入られた幕末志士のような、半分諦めが感じられる言い方である。
「よし、ちょっくら俺も探してやる」
 と、俺は重い腰を上げ掛けたのだが、
「ありがとう。でも、たぶん無いからもういい……」
「いや、良くないだろ。ちゃんと探……」
「お兄ちゃんも何か用事があってここを通り掛かったんでしょ。じゃあ駄目だよ、ちゃんと用事済ませないと」
 言われてみれば俺は朝比奈さんの手掛かりになるようなものを探しに来たんだっけ。またしてもトコロテン状態に頭から押し出されるところだった。
「でも、いいのか? キミはこれからどうするんだ?」
「あとで別の場所を探してみるから」


 俺の脳の原材料が寒天だったことが判明してからまもなく、俺は自分の仕事に戻ろうとブランコから腰を上げることした。
 やおら立ち上がろうと、視線を前に戻したそのすぐだ。
「ん?」
 一瞬だが、何かとてつもなく見覚えがあるような人影が視界に写った。と同時に、
「ほげっ」
 捕鯨? そんなもん三年前どころかもっと昔にすでに禁止されているはずだが。誰だまったく、こんな公衆の面前で堂々と犯罪宣言をする輩は。
 その犯罪予告者は俺に見つかったのがまずかったのか、奇声を上げてからすでに姿を隠していた。
 しかし見慣れた人影であることは、俺の右脳が確実だと告げている。いや、見慣れているというか、昨日まで見ていたというか……。
 恐らく間違いない。
 ……何をやってんですか、朝比奈さん。
 予想もつかなかったお尋ね者の登場ぶりに頭を抱えつつも、俺はそのお尋ね者が現れたポイントへ駆け寄る。
「くそ、居ないか」
 すでに逃げたようで、朝比奈さんの姿は見当たらない。
 だがそこで、朝比奈さんの代替とするには役不足もいいところだが、また別のものが目に留まった。
 くるぶしの辺りが何かモゾモゾすると思い視線を下げてみると、
「…………」
 グレー掛かった小犬が、俺の足周りをちょこちょこと動いていた。
 待て、何かこいつも見た覚えがあるような気がする。このムラのある灰色具合といい小さな躯体といい。
 お前、確か昨日の暴走車事件を引き起こした犬っころじゃないか。いいよなお前は無邪気で。半分お前のせいで俺がこんな死活問題を抱えていることなんざ、脳細胞一つ分も解っちゃいないんだろうな。
「ていうかだな」
 あまりにも偶然にしては出来過ぎてないか?
 今の俺の立ち位置に朝比奈さんが姿を現したと思ったのもつかの間、今度はこの犬っころにすり代わっていた。何のマジックショーだ。朝比奈さんがこいつを連れてきたのか?
 解らん。
 これは一体なんだってんだ。とにかく朝比奈さんを発見できた。そこまではいい。だがその朝比奈さんの行動の意図も含めて俺にはさっぱり解らん。
 割と早めに定期考査の問題用紙の下端まで辿り着いたと思ったら、裏面もびっしりと問題で埋め尽くされていたっていう結局そういうオチかよ。何だか俺の学園ライフを体現したような展開だな。
 こうして甘露煮よりは甘い考えを見事に焦げ付かされた俺は、毎度のことなんだから潔くこの難題に取り組めよと自分に喝を入れていると、
「なんだ?」
 グレー犬が纏わり付いている俺の足元に注目である。この犬自体に気を取られて気付かなかったのか、便箋の切れ端のようなものが地面上で目に入った。
 俺は腰を曲げてそれを手に取り、
「確かこれは……」
 いい加減、今日はもう言い飽きたがこれも見覚えがある。もうとにかく今日は見覚えがあることづくめだ。
 えーとこれは確か朝比奈さんいわく、最優先の命令コードってやつだったか。
 これまた何でこんなところに。逃げる時に破れ落ちたのか、それともわざとなのか? にしてもギリギリ本文が見えないのが残念だ。
 だが確信した。
 朝比奈さんは一人で未来からの指令を遂行している。
 しかし、どうしてまた一人でなんだ。これも指令なのか? 一人でやれっていう。
 だが、ただ朝比奈さん一人でやれば済むことなら、俺がここに連れて来られた理由が解らない。
 ならば、俺をフリーにすることに意味があるのか?
 あるいはその両方か、だ。
「……やれやれだ」
 てか、こんな短時間にどれだけ強引に詰め込んでんだ色々と。グラム売りの服屋とかでたまにやる一袋詰め放題五千円とか、そういう感じの外注の切り方してんのか朝比奈さん(大)は。
 流石にちょっと考え疲れてきた。年寄り臭いと時折言われることがあるが、脳年齢はそう老け込んでいないはずだ。いうほど頭を使わずとも今んとこ脳の老化などは心配あるまい。いったん引き返すか。
 俺はこの犬っころに別れのハンカチ代わりに頭を撫でつけてやろうと、腰を下ろして手を出そうとしたのだが、
「またお前が原因だったか……」
 立っていると気付かなかったが、目線をこいつに近い高さまで落として、ようやくそれが目に入った。
 親指ほどの太さの円筒状の物体。見た目から察すると、材質はオランダ水牛っぽい。それがこいつの小さな顎に咥えられている。
 印鑑だ。たぶんあの少女の母親のものだとみて間違いない。
 俺はこいつの口元目掛けて手を伸ばす。が、
「あ、待て」
 自分の目前に俺の手が迫るのを見て自分に危害が加えられると思ったのか、犬っころは素早く走り去る。
「くそっ」
 そもそも人間が犬に走行スピードで敵うはずはない上に、さらに俺の鈍足さも相まってか、一瞬にして俺の視界から犬っころは消えてしまった。
 朝比奈さんといい犬といい、今日は皆が俺を避ける。俺ってそんなに嫌われてたのか。
 俺は社会問題の筆頭に挙げられる陰険ないじめを受けている気分に陥りつつも、疲れた頭を上げて今日辿った道を引き返していた。
 決定、今日も長門との甘さ成分ゼロの同棲生活だ。



 ひとしきり思考の限りを尽くして疲れきった俺は、長門の部屋に戻るや否や活動中という姿を今だ見たことがない動物園のコアラのように寝そべって、適当な妄想で脳をほぐしていた。
 なんか一気に力が抜けた。
 朝比奈さんは無事な上、一人で何やらこなしているようだし、一体俺は何をしてこの時間旅行を満喫すべきなのか皆目見当もつかない。長門に茶々を入れつつ適当に遊んでいればいいのだろうか。
 まあ、何か俺に仕事があるとすれば朝比奈(大)印の斡旋業者が俺に手紙か何かを寄越すだろうから、それがなけりゃ文字通り何もないってことで捉えておこう。
 朝比奈さんという次世紀のヴィーナスに一人で仕事をさせるというのは、俺としては非常に芳しくない心持ちだが、本当にやることがないのだからしょうがない。
 こうして時間旅行中の日程表を白紙のまま進行させることを決めた俺の傍に、長門が無音で近寄ってきた。
「晩ご飯、どうする?」
 いいね、なんか、こういうの。たとえその相手が長門だとしてもさ。







 そしてまた翌日。
 取り入ってすることがないとはいえ、一つ気掛かりな問題が俺の脳内ちゃぶ台に置きっぱにされていたことを思い出した。
 それを蔑ろにしておくのもどうかという俺の良心めいたどこまでも安い責任感により、再び電車で二駅先のあの地域に出張中である。
「全く見当たらないな。どうだった、そっちは?」
「うん、駄目。全然……」
 俺のすぐ目の前で首を横に振っているのは、お察しの通りあの少女である。
 印鑑を昨日犬が咥えていたことを伝え、俺と少女はこの地域に拠点を置いているであろうあのワン公を見つけ出してやろうと、無駄に全力疾走シーンの多い熱血刑事ドラマのような捜索を行うことになった。
 そして二人で手分けしてあちらこちらと探し回ったのだが、生憎お尋ね者は姿を見せなかったのである。
 で、今はあの公園で報告会議中というわけだ。
「でもね。見つけたとしても、さすがにもう口に咥えてはいないと思うよ」
 いい指摘だが、むろん俺もそこまでは計算済みだ。
「ああ、解ってる。もし見つけたら、静かに跡をつけるんだ。あの犬だってどこか家的な、拠点としている場所があるかもしれない。ハンコもそこにあるかもしれないだろ?」
「……うーん、どうなんだろ」
 正直、自分でも結構な絵空事だと解っているが、他に手段が思いつかないのだから何もしないよりはマシだろう。
 そういう俺の最大公約数的な意見によって、もう一度探してみることになった。今度は二人一緒にである。
 悠々とスローモーに探してやるかと、散策気分七割捜索気分三割くらいの軽い具合の意気込みで公園を出ようとしたところ、
「あ」
 と五十音中トップバッターである発音を少女は声にした。
「もしかして、あれ?」
 続いて少女はそう言って、公園の出入り口の方向を指差す。
 俺もそちらに視線を向け、
「……ああ、あの小犬だ」
 どうやらお気に入りの場所らしく、またしてもこの公園に出没である。だが目を凝らすと、やはり印鑑はもうその口には咥えていない。
「よし、跡をつけよう」
 秘密の尾行にしてはえらく対象が安っぽいが、それでも俺と少女は息を潜めてその対象の動向を見守る。
 しばらく公園内をうろついていたが、やがて公園を後にし、チョロチョロと蛇行しながら公道を歩み始めた。俺と少女もそれに続く。
「このまま住処なり何なりに真っ直ぐ帰ってくれればいいんだけどな」
 なんせ犬の尾行なんざ、こちとらちっとも楽しくない。美少女の尾行ならアドレナリンが分泌されまくりなんだろうが、それ以外ならせいぜいドーパミン程度が関の山だ。
「うん、ほんと、ありがとう。こんな楽しくもないことに付き合ってくれて」
 少女は申し訳なさそうに頭を下げる
「いや、これは俺が勝手に首を突っ込んだことだ。どうせ暇だしな。お礼なんて言わなくていいぞ」
 少女が俺に気を使うところを見て、気さくな兄やんを演じてやろうと俺は少女の頭にポンと手を置いてやる。
「暇? 高校には行ってないの?」
 いつか訊かれるだろうと思っていた質問なんだが、俺は特に解答を用意していたわけではなく、
「いや、ちょっと、なんと言うかだな。あれだ、旅行でここに来ているだけなんだ」
 我ながら捻りの欠片もない受け答えだ。秋の涼しさでは、まだ俺の脳は活性化の兆しを見せてくれない。要するに冬以外は俺の脳は使えないということか。冬眠の逆バージョンだな。今度正式な言い方とかあるか調べておこう。
「旅行……そうなんだ」
 信じたのかそうでないのか掴みかねるニュアンスだが、少女はそれ以上追求しようとはしなかった。


 数十分ほど尾行し続けただろうか。そろそろ飽きが俺と少女の歩みを阻害しようと企み始めた頃合である。
 俺と少女の拠点である公園よりも大きい、垣根で囲まれた憩いの場的な公園だ。そこに小犬が入っていった。
 俺たちもそれに続き公園内に足を踏み入れると、そこには、
「よぅーしよし、いい子ですねぇ。やっぱり可愛いなぁ」
 しゃがんで膝を左手で抱え、空いた右手で小犬の頭を撫で回している国際A級優しさライセンス所持者、朝比奈さんの可憐なお姿が目に留まった。
 またしても意外な登場っぷりに臆する事なく、俺はなんとか平常心で、美少女と小犬のツーショットという絵にならずして何になるであろうといった、そのお一人と一匹のモデルに近づいていく。
「……あの、何をやってるんですか、朝比奈さん」
 その美少女モデルは顔を上げ、俺の存在を認識すると、
「ふえっ。もももう来ちゃったんですか! いえ、これは、あの……」
 凄まじいまでの慌てぶりで、手がなんだかよく解らないジェスチャーになっていらっしゃる。
「ひ、ひひ人違いですっ!」
 どう考えても信じ難い嘘を叫んで、走り去ってしまった。
 いやいや、あなたが朝比奈さんじゃないってんなら、これほどの美少女が割と近くに二人も居ることになる。もしそうなら、俺は退学してでも第二朝比奈さん探索三千里行脚に出ることになんら躊躇いを持たないことだろう。
「今の人、誰?」
 少女は尋ねてくるが、もちろん真実など話すわけにもいかず、
「いや、知り合いかと思ったんだが、どうやら人違いだったらしい」
 俺は適当に答えておいた。
 こうして置いてけぼりを食らったこの小さな犬っころは、さして悲しそうな様子も見せず、俺の足に擦り寄って尻尾を振っている。
「あはは。これあげてみて」
 そう言って少女は懐からちょっと高級そうなクッキーを取り出し、俺に渡してきた。
「うまそうだな。どっちかというと俺が食べたいくらいだ」
 いやマジで。これ一枚150円くらいするやつだろ。オシャレなカフェとかに置いてそうだ。
「まだあるから後で一緒に食べようよ」
 なら、と俺は犬っころの手前にホレと置いてやる。
 すると、まるで一枚150円の価値など我存ぜずとばかりに、いや実際わかっちゃいないんだろうが、とにかく一緒に地面も食べそうな勢いであっという間に平らげた。
「可愛いなあ」
 少女は目を細めて、この犬っころに見とれている。
 高級クッキーを瞬時に片付けた犬っころは、まだ物足りないのか二足で立って俺の足に寄り掛かってきた。手を出すと舐めてくる。
 まあ、確かに可愛い。俺は特に犬好きというわけでもないのだが、この飴玉のようなつぶらな瞳でキャンキャン懐いてこられると、正直たまらないものがある。すまん、愚かな浮気者を許せシャミセン。
「ねえ、この子に何か覚えさせてみたいな。『待て』とか『おすわり』とか」
「それは構わんが、飼い慣らされていない野良犬には、ちと厳しいんじゃないか?」
 少女はしゃがんで犬っころの頭を優しく撫でながら、
「多分この子、前は誰かに飼われてたんだと思う」
 どうして解るんだ?
「色がこんなだし、ちょっと汚れてるから最初解らなかったけど、雑種じゃないような気がするの」
 捨て犬か。
「だと思う。可哀想に……」
 確かに、人間に慣れている感じだしな。
 しかし、ほとほと人間ってのは身勝手な生き物だ。全国の保健所では一日に平均約千匹の犬が殺処分されているというのをテレビのニュースか何かで見たことがある。
「よし、何か仕込んでみるか」
「うん」
「じゃあ、ちょうど食いもんもあるし『待て』でも教え込んでやろう」
 俺は少女から再びクッキーを受け取り、適当に四等分してからその一つを地面に置き、
「よし、『待て』」
 パク。
 速攻食われた。
「まあ、いきなり出来るわけないしな。もう一回だ」
 再び、一欠片を地面に置き、
「待て」
 パク。
 またもや速攻。
「人間、根気が大事だ。『待て』」
 パク。
 刹那の出来事。
「待て」
 パク。
 それこそ残像拳。
「待て」
 パク。
「待」
 パク。
 すまんが、どうやらお前も処分決定のようだ。
「駄目だよ! そんなこと言ったら」
 少女は小犬を庇うように抱き、俺に抗議の声を上げる。
「冗談だよ。嘘に決まってるだろう」

 こうして俺と少女は当初の目的をすっかり忘れて、日が西に傾くまで犬っころと遊び呆けていた。
 完全に俺たちに懐いてしまった小犬は、帰る時も後ろからちょこちょこと俺に付いて来てたのだが、流石に電車に乗せるわけにはいかず、可哀想だが市街地に出てからダッシュで撒いた。
 ちなみに印鑑については、帰る直前に思い出し、なんとか見つかった。あの小犬が掘ったであろう小さく浅い穴に無造作に入れられていたのである。
 とにかく楽しかったし目的も達成したしで何よりだ。初めて、あの少女も元気な姿を見せてくれたしな。印鑑も見つかったし、家でうまくやってくれるといいのだが。
 


                          次へ