その翌日。時間旅行内でもう四日目になる。
 空恐ろしいことに、ふと気付けば二駅分の切符を買っている自分に寒気を感じる。毎日気付けば文芸部室に向かっているように、習慣というもの自体が習慣づいているのかもしれない。つまり俺にとってあの公園がこの時空での文芸部室ということらしい。
 だが、あの少女は今日からちゃんと学校へ行くと指切りしてくれたし、公園には居ないはずだ。なら犬っころでも可愛がってやるとするか。もしかすればまた朝比奈さんに遭遇するかもしれんしな。
 それはそうと、朝比奈さんの仕事は一体いつ終業なんだ。やっぱ未来でもサービス残業とかがちょっとした社会問題になってたりするんだろうか。デスクに向かい残業に勤しむ朝比奈さん。何だか想像の範疇を超えた光景だ。
 未来のサラリーマンたちが給料を上げんと奮起する春闘の行く末を案じつつ、俺はお馴染みとなった公園に足を踏み入れる。
 だがそこで俺が見たものは、いかんとも許すまじき光景だった。

「お願い、やめてあげて!」
 少女だ。学校の制服を身に纏っているので、通学途中だったんだろう。
 だがそれは置いといてだ。彼女が悲痛な面持ちで願いを請う先に、彼女と同学年くらいだろうか、数人の男子生徒が何かを囲んでいる。嫌な予感がする。
「うるせえ! こいつがあんなことするからだ!」
 男子生徒のうちの一人が少女にそう言い捨て、輪の中心にある何かを蹴っている。少女はその男子の袖を引っ張るが、所詮は女の子の力。引っ張られている男子が強く振り払うと、彼女は簡単によろめき尻もちをついた。
「きゃっ」
 あのガキ、なんてことしやがる!
 俺は即座に走り寄り、
「おい、お前ら! 何やってんだ!」
 少女に手を貸して起こしたあと、輪の中心にあるものが何かを確かめるべく、俺は自分の前を遮る男子生徒たちを横に薙ぎ払う。
 そして、いよいよ輪の中心に存在するものが俺の目に入る。
「くそっ、酷え!」
 紛れもない、今や俺にすっかり懐いてなかなか離れようとしない、あの小犬だった。だがその姿は見るも痛々しく、フラフラと片足を引きずってバランスを気にしながらようやく立っている。見るとその片足からは血が流れている。
 情報統合思念体に対しての時以来だろうか。俺は怒りをあらわにせずにはいられなかった。
「お前ら……なんてことしてんだ!!」
 思いっきり怒鳴りつける。周囲の目なんぞ今はもちろん無視だ。
「……こ、こいつが、せっかくのこれを食っちまったから……」
 男子生徒たちは俺の勢いに一歩ほど後退りし、それを俺に見せるべく目の前に出す。
 これは昨日、少女が持っていたクッキーじゃないか。
「キミがあげたのか?」
 少女は強く首を横に振り、
「ううん、わたしじゃない。でも、昨日わたしが持っていたものと同じ……」
 どういうことだ。なぜこいつらがそれを持っている。
 いや、まあいくら高級でも市販の物だろうから、偶然こいつらが持っていたということもありえるだろうが。
「さっき、すげー可愛い姉ちゃんに貰ったんだよ。せっかくうまそうだったのに、いきなりあの犬が食いついてきたんだ」
 おい、まさか。
「その可愛い姉ちゃんってのはひょっとして、背が低くて、栗色の長い髪で、童顔の割に胸がめちゃくちゃ大きかったりする姉ちゃんか?」
「うん、そんな感じだった。兄ちゃんの知り合いか?」
 おい、何なんだよ一体。何をやってんだ朝比奈さんは。もとい、何をやらせてんだ朝比奈さん(大)は!
 なんで俺の犬っころをこんな目に遭わせなきゃならねえんだ!
 これが規定事項だってのか? どんな規定事項だ。
 何の為かしらんが、そんな規定事項なんぞくそ食らえだ!
「大丈夫? 大丈夫?」
 少女は今にも泣きそうな表情で小犬を労わっている。
「大丈夫だ、俺がなんとかする。キミは早く学校へ行け。お前らもだ」
 俺は少女と男子生徒たちを学校へ向かうよう促し、小犬を抱える。
 男子生徒たちはしょぼしょぼと公園を後にし、少女もそれに続いて足を進め始める。
 少女は最後に俺の方を振り返り、
「お願い、その子をなんとかしてあげて」
 ああ、任せろ。こうやって誰かに背中を押された時の俺は、けっこう行動力あるんだぜ。
 とにかく死にはしないだろうダメージでよかった。重傷なのは左後ろ足くらいだ。今はヘタってはいるが、きっと大丈夫だろう。
 俺は、早くこいつをなんとかしてやりたい一心で駆け足を始めた。左後ろ足からの流血がまだ止まらないのが痛々しい。
 動物病院しかないか。あそこなら走って行けそうだ。
 俺は何度か傍を通り掛かったことのある動物病院を思い出し、目的地を定めて駆け足を続けた。服がこいつの血で汚れるが、そんなこと今は関係ない。


 ああこの辺って東中の近くだなとか、どうでもいいことを一瞬頭によぎらせつつも十数分ほど走っただろうか。息を切らして、ようやく目的地の辺りに辿り着いた。
 だが、一向に頭に描いている見覚えのある建造物が見当たらない。
 どういうことだ。場所はここで間違いないはずだ。
 ここで俺の理解が及ばなかったのも一瞬、重要にして当然の事に気付いた。
 しまった、今は三年前だ。ここが開業したのは俺が中三の頃、つまり三年前ではまだ開業していない。
 くそっ、どうする? 今から新たな動物病院の在り処を調べるのは、ちときつい。
 そういえばよくよく考えると、病院とかって俺の身分を証明させられたりするんじゃないのか? 動物病院も恐らくその可能性が高そうだ。そうなるとマズイな。
 なら仕方ねえ、残された選択肢はあれしかない。
 長門に治してもらおう。
 事あるごとに頼ってばっかりでほんとすまないが、お前ならどんな世界的名医よりも信頼できる。頼むぜ長門。
 俺は急遽方向転換、長門の部屋を目指すことにした。


 そして、また東中の近くだなとか二度も忌々しい感慨にふけっていると、俺とは反対車線側の道沿いのマンションのベランダだ。えーとあそこは四階だな。そこに見慣れた人影が植木鉢を持って立っているのが見えた。
 またもや朝比奈さんである。なんなんだ一体。今度は何をしでかす気だ。
 あの状態で植木鉢を抱えているってことは、まさか盆栽の手入れをしているわけではあるまい。
 落とすつもりだ、下の道に。
 おいおい、まさか誰かの頭にでも落とすつもりじゃなかろうな。まさか朝比奈さんがそんな大それたことをやらかすとは考えられん。
 俺は植木鉢の目標になるであろう人物、あるいは物体をいち早く突き止めるべく、そのマンションの傍を通り掛かる全てのものに神経を尖らせる。
 そして一人の少女にふと視線が奪われた。
 東中らしき制服、長い黒髪、そして何より我が道顔で威風堂々と歩道をズカズカと進んでいく姿、間違いない。あんな奴日本中探したって、せいぜいこいつ以外にあと一人居るかどうかも怪しい。
 中一ハルヒだ。
 まさかハルヒの頭目掛けて落とすってのか? いやいや、いくらなんでもそれはマズイだろ。いくらハルヒでも肉体は一応人間だ。直撃したらたぶん死ぬぞ。流石の俺もハルヒが死んじまうってのはちょっと遺憾だ。
 そうやって俺が曲りなりにもハルヒの生死を案じている間に、朝比奈さんの手から植木鉢ミサイルが放たれた。
 一瞬焦ったが、俺はすぐさま安心を取り戻した。脳天直撃コースではない。これならハルヒの手前コースだ。
 ガシャン。
 予想通りハルヒの手前に不時着。
「……な」
 ハルヒは目を見開いてあっけに取られている。だが瞬時に気を取り直し、あの凄まじいまでの眼光で上を睨みつけ、
「誰! 大人しく出てきなさい!」
 周囲の視線など全く気にする様子もなく、ハルヒは大声で叫ぶ。
「ひえっ」
 朝比奈さんはとっさに身を隠すが、
「見えたわよ! 今隠れた奴ね! ははーん、さてはあたしを狙う悪の組織か何かでしょ。間違いないわ!」
 何だかどこかで聞いたことのある台詞だなおい。
「今からそっち行くから逃げるんじゃないわよ! いいわね!」
 そう言ってハルヒは何の迷いもなくマンション内へと入り込んでいく。
 だがベランダにはすでに朝比奈さんの姿はなかった。
 部屋に入ったのか、それとも未来的手段で逃げたのか。
 俺は朝比奈さんを絞めるハルヒという物騒な場面を思い描いていると、俺に抱えられている小犬が、くぅーん、とすがるような鳴き声を出してきた。
 おっと、俺は悠長に観衆化している場合ではなかった。こいつを長門のところまで連れて行かなけりゃならん。
 すまん、余計な時間を食っちまったな。
 俺は再び急ぎ足で、いざ長門宅へと激走を開始する。


 重ねて言うが、こいつを電車に乗せるのは流石に無理がある。だがこの距離を走るにしては我が足腰は情けなくも弱すぎるため、俺は最終手段を取ることにした。
 懐は傷むが仕方ない。俺はタクシーを拾って長門の部屋を目指した。
 流血している犬を抱えているゆえに乗車拒否される可能性も考えたが、運良く運転手さんがいい人で、状況を説明すると急いで車を走らせてくれた。ただ行き先がマンションだったことに疑問を感じていたようだが。
 とにかく、ようやく長門のマンションに到着した俺は、小犬をエントランスの手前にゆっくりと降ろし、「すぐ戻ってくるから待ってろ」と呟いて長門の部屋へとダッシュする。
 ガチャ、と長門が扉を開けてくれるや否や俺は長門の手を取り、とんぼ返りで再びエントランスへ向かう。
 長門は問いたげな視線でじっと俺を見つめながらも、俺に手を取られたまま小走りだ。
「長門、急ですまないが、怪我を治してやって欲しい奴がいるんだ。いいか?」
 エレベーターに入り、俺が簡単な事情を話すと長門は、
「わかった」
 そう言ってくれるお前がひたすら頼もしいぜ。
 一階到着を告げる合図音が鳴り、扉が開くと同時に出た俺は、
「あそこに……あれ?」
 と指を差して長門に場所を告げたそこには、小犬の姿は見当たらなかった。
「まさか、逃げたのか?」
 なんてこった。この期に及んで無駄に元気っぷりを見せ付けてくれるぜ、まったく。
 しかしあの足の怪我だ。まだそう遠くには行っていないはずだ。
 俺は小犬を探そうとエントランスを出ようとする。が、長門の口からとんでもない真実が語られた。
「あなたが連れて来た小さな有機生命体は、現在この時空での存在を感知できない」
 俺は立ち止まり、長門の方へ振り返る。
「……どういうことだ。ついさっきまでここに居たんだぞ」
「そう。消えたのもつい先程」
 消えたってもな、俺には状況がさっぱりだ。
「あなたがここからわたしの部屋へ向かっている時、ここの座標も含めた半径六キロメートルにおいて、この時空とは別次元に新たな空間が構築された」
 長門は一度眼鏡の位置を直し、続ける。
「その発生源は、涼宮ハルヒ」
 そういうことか。ならば答えはこれ以外にない。
「閉鎖空間か」
「そう呼ぶ者たちも居る」
 となると原因は、あれしかねえ。
 マンションのベランダを鋭い眼光で見上げるハルヒが俺の脳裏に浮かぶ。
 ちくしょう、朝比奈さん(大)は何を考えてんだ一体! こんなに小犬を虐めて楽しいのか?
 とにかくあの足の状態であの灰色空間はまずい。犬っころも灰色だが、保護色になったところで特に身を守る手段にはなりえない。それこそ青い巨人が犬っころの近くで暴れ始めた日には、それは大いに危惧すべき事態だ。
「長門! お前の力で俺をあの空間に入れてもらえないか?」
 あんな訳の解らん世界には二度と入るまいと誓っていたが、ここは仕方ねえ。
「それはできない。しない、という意味ではなく、わたしの能力では不可能」
 くそっ。俺はここでじっと待っていることしかできないってのかよ。
「わたしが直接、空間内に侵入させることはできない。でも、他者を介入しての侵入は可能」
「どんな手段でもいい。とにかく入れるんだな?」
 俺がそう確認すると、長門は小さく頷き、
「涼宮ハルヒ自身が能力を与えた、その空間内の為の能力者。その内の誰かに接触すること」
 あれか。あの赤い玉になる奴らのことだな。
「でもだな、どうやったらそいつが能力者だって解るんだよ。もしかしたらお前には解るのかもしれんが、お前も付いて来てくれるのか?」
「わたしが、おおよその時間と場所を指定する。あなたはそこへ向かえばいい」
「ちょっと待て。その場所に能力者だけが通るってんなら俺でも解るだろうが、一般人に紛れてるとかなら俺に探し出せるわけないだろうが」
「あなたが思う人でいい。でも、よく観察して」
 長門にしちゃ適当だなおい。本当にそんなんで大丈夫なのかよ。
「大丈夫」
 マジかよ長門。
「マジ」
 珍しい長門の俗語に驚嘆している俺を尻目に、長門はすっと俺に近寄り、
 カプ。
 噛まれた。
「不可視遮音フィールドをあなたのみに展開した。今、あなたの存在は有機生命体には認識できない」
 そうか。能力者も一般人にいきなり触れられて、そのまま灰色空間に入るなんてことはしないだろうからな。普通に頼んでも無理だろうし。
 てことはだな。今俺は透明人間というわけか。
「そういうことになる」
 ……いや、何というかだな、別にやましいことを妄想したわけでは断じてないぞ。
「フィールドは時間制限で解除されるように設定した。おそらく、あなたが空間内に侵入してしばらくした後」
「解った。じゃあ時間と場所を教えてくれ」
 長門はまたしても小さく頷き、淡々と俺に伝えた。
 そして俺はすぐさま長門指定の地点へ向かい始める。

 待ってろよワン公。
 無事に戻ってこれた暁には、うちのシャミセンと一戦交わらせてやる。いや、逆に迷惑かもしれんが。

 だから、とにかく無事でいてくれ。





 長門が指定した場所までは、およそニキロメートルほどの距離だった。
 何だか突っ走ってばかりの一日だったので、正直、俺の下半身中の筋肉が悲鳴を上げまくっている状態だ。
 だが透明人間のままタクシーに手を上げたところで気付かれるはずはなく、気付いたら気付いたでそっちの方が反って問題である。
 よって俺は自分の足で目的地へ赴くことを余儀なくされ、鎮痛な思いでようやく到着したというわけだ。
 長門指定の時間までもうあまり余裕はない。
 俺は長門の指示通り、どいつが赤玉なのか街行く人々の顔色をこれでもかと凝視しまくり、すれ違う人々に、お前か、お前なんだろ、とテレパシーを散弾させていた。これで俺の姿が見えていたとすれば、今頃しかるべき職務質問の真っ最中だったことだろう。
 やがて、この街の人口の十分の一くらいはテレパシーを送ったかと思われた頃、一人の少年が俺の視線を釘付けにした。
 俺はそいつを見て苦笑せずにはいられなかった。
「そういうことか長門」
 なるほど。確かにこりゃ、ぱっと見じゃ気付かなかったかもしれん。よく観察しろとはこういうことだったのか。
 顔は今よりずいぶん幼いが、このハンサム顔といい幼くもキザったらしい雰囲気といい、間違いない。
 中学一年の古泉一樹だ。
 俺は自分の知る古泉より二十パーセントほど可愛げがプラスされた少年に遠慮なく近づいていく。もちろん少年は俺の存在には気付かない。もし気付いたところで、今のあいつは俺のことなど知らんだろうが。
 長門いわく、確かこれを目印としたラインが空間の境目。俺はそのラインより三歩ほど少年側に進み、俺に近づいてくる少年を待つ。
 三メートル、二メートル、一メートル、タッチ。
 と、触れたその瞬間。


 空と雲の織り成すグラデーションが消え、一面が灰色に塗り変わる。それと同時に人々の喧騒が消え、薄暗さと静寂が一気に辺りを支配する。
 約一年ぶりの光景。閉鎖空間。
 久し振りだ。だが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
 俺と小犬の五体満足での大脱出劇を成功の狼煙で終わらせるべく、疲れきった足腰に動けと念じる。
 さて、まずは犬っころがどの辺りで俺を待ち呆けているのか。
 簡単だ。消えたのが長門のマンションの辺りなら、ここに侵入した時もそこで間違いないだろう。
 だとすれば、小犬までの距離は約二キロメートル。遠い。筋肉内の乳酸が作る距離の壁。
 巨人は二体。ちょうど左側の方のでかぶつの辺りが俺の向かうべきところだろう。
 だとすれば、これは一刻の猶予もならない。あの辺りが長門のマンションだとすれば、巨人との距離はいかほどのものでもない。
 無宗教な日本人特有の都合のいい時だけの神頼み。そんなもんこれっぽっちも効果がないことが解っていながらも、俺は祈らずにはいられなかった。
 だが俺は激走のまっさなかであり、手を合わせて祈るのもままならない。心の中で十字を切りつつ、がむしゃらに走り続ける。
 そうしている間にも、巨人によって破壊の限りが尽くされていく。
「くそっ。ちっとはおとなしくしやがれってんだ!」
 しかしとにかく走りにくい。ラバーソールに伝わるモルタルなどの瓦礫の感触が、その足場の悪さを物語っている。馬場で言うと稍重くらいだろうか。
 そろそろ巨人の手刀が生み出す衝撃を、波紋状に広がっていくのが体感できるくらいの距離にまで来た。
 それに伴い、破壊されて飛び散る建築材料もちらほらと降り注ぐようになる。それが空の灰色と相まって無駄に黒光りするのが気味が悪く、俺の不安感をいたずらに煽る。
 そろそろだ。爆心地は近い。
 だが、もともと体力は病み上がりのレッサーパンダくらいの俺が、これほどの爆走を繰り広げたからにはその代償は大きい。
 一瞬聴覚がハウリングを起こし、足が電気アンマの如く震えている。距離にすればあとほんの僅かだが、耐え切れずに瓦礫で荒れた地面に膝をつく。
「はあ、はあ、ちょっとばかし厳しいぜ」
 休憩を余儀なくされ、俺は不本意にも座り込む。
 五、六分ほど経っただろうか。俺が息を整えている時だ。
「うおっ」
 大きな衝撃が俺の鼓膜を揺さぶった。
 近い。
 見れば長門のマンションから百五十メートルほどのところに巨人が迫っていた。相変わらず規格外にでかい。
 ちっとは体力も回復したところで、俺は再び駆け出す。
 そこからはすぐだった。
 俺はマンションの敷地内への出入り口辺りに目をやる。
 
 ――いた。

 降り注ぐ凶器めいた建造物の破片にも逃げ出さず、俺の言いつけ通りに待ち続けていた。
 なんて奴だ。
 お前こそが忠犬ハチ公の生まれ変わりなんじゃないだろうか。きっと未来の渋谷にはお前の銅像が建っているに違いない。今度朝比奈さんに訊いてみよう。
 俺が未来の渋谷駅前の妄想に思考を奪われていると、犬っころはこちらの存在に気付いたようで、左後ろ足を引きずって近づいてくる。
「無理するな! 待ってろ!」
 俺も駆け寄ろうとするが、すぐさま停止を余儀なくされる。
 俺と小犬が作る距離のちょうど中間辺りに、カノン砲なんざメじゃなさそうな手刀が降り注ぐ。
「のわっ」
 マンションを囲うコンクリートの壁が砕かれ、水道管が破裂し、凄まじい水圧の即席噴水が作られる。
 いよいよ本気でやばい。
 続けざまに拳が振り下ろされる。小犬に近い。血の気が引き、大量の冷や汗が噴き出す。
 ドゴッという感じの擬音と共に、再び小犬が見えなくなる。
 ……おい、まさか。
 最悪の事態が頭をよぎる。
 俺は杞憂であることを祈りながら前に視線を固定する。すると拳が取り払われ、小犬との間の障害物が消える。俺はすぐさま安否を確認。
 いた。無事だ。
 どうやら杞憂だったようで、俺は胸を撫で下ろす。
 だが、おそらく小犬の真下だったんだろう。そこに埋められてある水道管が破裂し、その水圧がまともに小犬を直撃した。
 キャンッという痛々しい声と同時に小犬は横倒しにされる。

 そこで俺は決定的なものを目にした。

 こいつが纏っていたムラのある灰色。これはおそらく長期の野良生活で毛に染み付いた汚れだったんだろう。
 雨程度では流されることなく、むしろ雨だと余計に汚れる場合もあるかもしれんが。
 とにかく俺は見逃さなかった。
 凄まじい水圧でそれが流された一部分。
 そこに見えたこいつ本来の姿。

 白馬にも勝らん純白に輝く毛並みが、俺に姿を見せた。

 そして瞬時に。


 俺は全てを理解した。


 そうか。そういうことだったのか。
 きっとこれが、俺に課せられたこの時間旅行での役割。
 暴走車も、クッキーも、植木鉢ミサイルも、全ては俺がこの役目をやり遂げる為。
 朝比奈さんにとっての鶴屋さんが居るように、きっとハルヒにとってあの少女は、いずれそういう存在になってくれるのかもしれない。
 だから、仕方ねえ。
 あいつにとって大事な、そのきっかけを作ってやる為に、俺は何があろうと必ずこいつをここから無事に連れ出してやるさ。
 ハルヒ、俺の体を酷使させた借りは、いずれきっちり返してもらうぜ。

 瓦礫の舞うグラウンドゼロで、犬っころは左後ろ足が体に吊り下げられた状態で必死にこちらへ進む。
 そこでふと見上げた俺の視界に入ったのは、巨人が大きく拳を振りかぶる姿。その拳が向かう先は。
 ――まずい。
 犬っころを止めないと、これはおそらく直撃。それはゲームオーバーにほかならない。
「おい動くな! 止まってろ!」
 俺は叫ぶが、やはり効果はなく小犬は直進を続ける。
 くそっ、どうすりゃいい。もう時間がない。
 だがここでさじを投げるわけにはいかん。
 こいつを無事にあの少女のもとへ送り届ける為。
 そして、その少女がいずれあいつの大事な存在になる為に。
 何しろ俺自身、この犬っころには情が移っちまったしな。
 灰色の空に映える青い拳が照準を合わせる。位置エネルギーが運動エネルギーへと変わる瞬間。
 俺は、声の限りを尽くして叫ぶ。


「ルソー! 『待て』!」


 止まった。ピタッと。
 その刹那、ルソーの手前に拳が現れる。
 セーフだ。そして青い拳のUターンと同時に、俺はルソーのもとへ駆け寄る。
「えらいぞ。よく頑張った」
 抱きかかえて頭を撫でてやる。
 よくぞ止まってくれたもんだ。初めて呼ばれたであろう自分の名前を、こいつは瞬時に理解したのだろうか。たいしたもんだ。いっそハチ公って名前にするか?
 だがその改名案を通すのは未来を変えるに同意義かもしれないので、それは自分の胸に仕舞っておくことを決め、早々にこの場から離れることにした。
 もう一体の巨人をやっとこさ始末し終えたのか、やがて幾つかの赤い玉がこちらの方の巨人へと標的を変えた。古泉もこの中に紛れているんだろうか。
 青い光に赤い光が重なり、それが紫に見えたりするヴィヴィッドな光景は、教会のステンドグラスを連想させる。
 その幻想的な色合いを、俺とルソーはじっと眺めていた。
 とうとう巨人は体の大部分を失い、それこそ本物のグラウンド・ゼロのあの高層ビルのように崩れ落ちていく。
 灰色の空に亀裂が走り、古泉いわくのちょっとしたスペクタクルな光景、久々のそれに俺は目を奪われる。



 日光を浴び、人々の気配を取り戻して、俺は無事戻ってこれたことを実感した。
 ようやく肩の荷が降りた気がして、ふう、と溜息をつく。
 長門のマンションへ帰ると、俺たちを待っていてくれたのか長門と朝比奈さんがエントランスの外で立っていた。
「ふえっ。キョンくん……よかった、ほんとに無事でよかったぁ。えぐっ」
 いきなり朝比奈さんに泣きつかれた。
 あんまり俺にくっつくと汚れますよ。外面的な意味で。
「キョンくん、ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。あたしのしたことが、キョンくんをこんなに大変な目に遭わせて……」
 いえいえ、きっと必要なことだったってのを今さっき知りましたから。それに、どんなに大層な厄介事だって、あなたの涙をもってすれば諭吉でお釣りが返ってくるという信じ難い事態になりますので、結局はプラスです。
「長門、ありがとな。お前がいなけりゃ、またどうにもならないところだったよ」
 俺と朝比奈さんのやり取りを微動だにせず見つめていた長門に、俺はお礼の言葉を述べる。
「いい」
 口以外の部分を全く動かすことなく、長門はそう返してきた。
「長門、これが最後の頼みだ。こいつの足を治してやって欲しい。それと、ちょっと風呂を貸してくれないか?」
 ずいぶんと汚れたしな。俺もこいつも。
「朝比奈さん。あとでびっくりするものを見せてあげますよ」
 俺は、小犬の足を痛々しそうに見ている朝比奈さんに前振りをしておくことを忘れない。
「え? び、びっくりするものですか? なんだろう……」
 朝比奈さんが首を傾げているうちにドクター長門の秒間オペが終了したようで、俺は小犬を連れて風呂でお互いの汚れをさっぱり落としてやった。
 犬っころの汚れはなかなかしぶとく、石鹸でゴシゴシ洗ってようやく落ちた感じだ。最後にドライヤーで緩く乾かしてやると、みるみるうちにふわふわの毛並みが現れた。
 それを朝比奈さんに見せて差し上げると、
「ええっ! これって……もしかしてこの子って、そういうことだったんですかぁ……」
 期待通りの反応に俺は満足しつつ、
「ええ、びっくりしたでしょう?」
 俺はどっちかというと、びっくりしたというより妙に納得しちまったって感じだったけどな。
「そういうわけで、今から俺は最後の仕上げに行ってこようと思います。それまでもう少し待っててもらっていいですか?」
「わかりました。キョンくん、頑張って!」
 両拳を胸のあたりで、ぐっ、とやる朝比奈さんという、俺の脳内高性能パノラマカメラがシャッターを切らずにはいられない光景を見届けて、俺は長門の部屋を出る。
 中学って授業終わるの何時くらいだっけかと記憶の引き出しを開け閉めしつつ、俺はあの公園へと向かった。



 どうやら時間的に早かったようで、少しばかり待つ羽目になった。
 まあ犬っころという遊び道具を引き連れて来たということもあり、まず退屈はせずに済みそうなのでさほど気にはしない。適当にこいつと戯れながら待つとしよう。
 将来を見越して火の輪くぐりでも仕込んでおいて損はないだろうが、俺の肩書きに前科が付くのは今のところ御免被りたいので、至極健全なお遊びで時間を潰すことにした。
 そうして俺が小犬と遊んでやっているのか逆に遊んでもらっているのか、小犬にしてみればどっちでも良さそうな状態がしばらく続き、
「あ、よかった。居たんだ」
 制服姿の少女がこちらへ走り寄ってきた。
「授業お疲れさま。ちゃんと勉強してきたか?」
「うーん、そこそこかな。それにしても良かった。この子の怪我、治してくれたんだね」
 少女は俺に抱かれている小犬の頭を、よしよし、と撫でる。
「ああ。それにずいぶん見てくれ変わっただろ、こいつ」
「うん、綺麗になった。やっぱりわたしが言ったとおり、雑種っぽくないね」
 実際、雑種ではないからな。えーと、なんつったっけ。ホワイト何とか……確かそういう感じの種類だったな。
「なあ、ちょっと頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」
 少女は犬っころの頭を撫でながら、「なに?」と顔をこちらへ向ける。
「俺さ、ちょっと当分遠くへ行かなくちゃならないんだ」
 俺がそう言うと、少女は目を俯かせ、
「え……そう。そうなんだ……。お引越し?」
「まあ、そんなところだ。そこで、こいつのことなんだが、キミが飼ってやってくれないかと思ってな」
 すると今度は少女は目を丸くして、
「え? わたしが?」
「ああ。俺が飼ってやろうかとも思ったんだが、引越し先がペット禁止でな。それに、あれだ、キミの両親もこいつに心和まされて、離婚なんてやめようと思うかもしれないだろ?」
 それに、うちにはシャミセンがいるしな。妙な響きになるが、犬と猫は犬猿の仲だ。
 少女は少し考えるような仕草を見せ、
「……うん、わかった。わたしもこの子と一緒に暮らせるなんて嬉しいし。飼えるよう頼んでみるね!」
 明るい笑顔で、少女はそう答えてくれた。
「ありがとう。それと、実はもう名前も考えてある」
「名前かぁ。いいなあ。ね、どんなの?」
 目を輝かせながら、俺の顔を覗き込んで訊いてくる。
「ルソー、ってのはどうだ? 賢そうだろう?」
 俺がその名前を口にすると、少女はその名前を何度か小さく呟き、
「ルソー。ルソー、か。うん、いい。すごくいい名前!」
 気に入ってくれたようで、よもやハチ公にならずに済んだことに俺は安堵の息を漏らす。
 こうして、俺に課せられたこの時間旅行での最後の役割も無事終了し、少女はルソーを連れて帰宅することになった。
 少女は俺に手を振りながら公園を後にし、俺もそれに答えて手を振ってやった。全てが終わったことを実感する。
 がんばれよ。キミもルソーも。幸福な家庭を取り戻す鍵は、きっとキミたちにある。
 キミたちが頑張れば、両親が離婚なんて絶対にない。
 それは何年後かの俺が保障してやる。
 嘘じゃない。
 なぜかって、そんなの言うまでもないだろ?
 なんせ俺はすでに知ってるからな。
 

 少なくとも十六を過ぎるまでは、キミの苗字は変わらず「阪中」だってことをさ。










 四日間のうち丸三日を動物愛護に費やしたという、どこぞのボランティア団体のような出張を終え、俺と朝比奈さんはもとの時間軸へと帰還した。
 俺はなんだか妙にシャミセンが恋しくなり、その日は帰宅してからずっとシャミセンを玩具にしていた。当の本人はちょっと迷惑そうだったが。
 うむ、たまには生魚でも食わせてやるか。


 そして翌日。
 授業の合間に挟まれている短い休憩時間だ。
 俺は自分の席を立ち、お馴染みの面子が揃う方へ向かうと、
「俺よお、今度の連休、東京に遊びに行くことになったんだぜ」
 田舎もん丸出しのアホ面が、ひとはた上げてくるべと言わんばかりにぼやきだした。
「へえー、東京かあ。でもさ、東京って普通に遊ぶには良さそうだけど、観光って感じじゃないよね。まあ、僕はまだ行ったことないんだけどさ」
「俺も行ったことはないが、国木田に同意だな。イメージ的にはそんな感じがする」
 俺と国木田の軽いジャブを受けて、谷口はより声を上げ、
「ばっかお前ら、東京だぜ東京! そんなもん渋谷でナンパに決まってんじゃねえか! きっと大漁だぜ大漁」
 こいつにしてみれば東京が何らかの攻撃を受けたとしても、日本の機能の停止とかじゃなく、そっちの方を心配するんだろうな。
「谷口、渋谷に行ったら、あの駅前の銅像が違う犬になってないか確かめてきてくれ」
「……は? 何言ってんだお前」
「どうしたの、キョン?」
 いや、そんな二人して今にもカウンセリングを勧めてきそうな目で見なくてもだな。
「……いや、なんでもない。単なる思い違いだ」
 あの小さな犬っころが拡大されて石の塊になっている絵が脳裏に浮かんだ。
 そこで俺は、無意識に窓際後方の席へと視線を移していた。
 俺の目に入ったのは、

「…………のね」
「そう、よかったじゃない。じゃあ今週末、みんなでJ・Jに会いに行くわ」
「うん、待ってるから。きっとルソーも喜ぶと思うのね」

 傍目から見れば、なんてことのないクラスメイトの日常会話。
 だがそれを織り成すのは、
「キョン! 今度の土曜日、SOS団課外活動があるから絶対に空けとくこと、いいわね! J・Jの様子を窺いに阪中宅へゴーよ!」

 孤独な中学時代を過ごした一人の少女。
 それと、いずれその親友になるであろう一人の少女。

「やれやれ。もともと俺の予定なんざ関係ないんだろうが、どうせ」
 そしてそれを紡ぐのは。


 二人の人間を支えるにはあまりにもか弱い、一つの小さな命なのさ。