「はあっ、はあっ……まさか0時限目に体育があったとは驚きだぜっ」
 明らかに今の独り言に対して、哀れむ視線をこちらに向けている通行人にも全く構わず、俺は今 全力で愛車のチャリンコを漕ぎ続けている。
 いつも朝は大抵、妹のフライングボディアタックが強制的に俺を目覚めさせるのだが、今日は 校外学習らしく、普段俺が起きる時間にはすでに妹は登校中という事態。で、起きる手段を失った俺は 寝坊で遅刻寸前というわけだ。まあ、寸前というか……多分、間に合わん。
 ……ったく朝から憂鬱にしてくれるぜ。早いとこ到着して、あいつの可愛い笑顔を見て気分を 晴らさないとな。他のクラスメイトに対してはオドオドしちまうのに、俺だけには笑顔を見せてくれる から可愛すぎる。
 心臓破りの坂をようやく征服し、我が学び舎へと辿り着いた。チャイムが鳴った。急いで靴を脱ぎ、 上履きのかかとを踏みながら教室へ走る。まだ来るなよ岡部っ。
 着いた。扉を開ける。そしてすぐさま教壇に目をやる。
 ……。
 よし、よくがんばった俺。岡部はまだ来ていない。
「あ、おはようキョン。よかった、間に合ったね」
 これだ。全速力で走ってきた疲れも一瞬で吹き飛ぶ、天使のような笑顔。もうこの為に学校へ来てる ようなもんだからな。
「ああ、おはようハルヒ」
 俺は席に着き、体を半身にして後ろのハルヒの方を向く。毎朝の習慣になった体勢だ。
「なあハルヒ」
「なに?」
 朝のHRが始まるまで、俺たちはいつものように他愛もない会話をしていたのだが。
「涼宮ー、あのさあこないだの課題なんだけど、俺忙しくてちょっとできなくてよぉ。ちょっとだけで いいから見せてくれないか? な?」
 谷口が割り込んできて、二日ほど前に出された数学の課題を写させろとハルヒに言っている。
「え? あ、う…うん。いいよ……」
 ハルヒは困ったという感じでオドオドと下を向いて答える。
「おい、谷口たまには自分でやれよ。それか俺の写すか? それなら一向にかまわんぞ」
 俺は軽く谷口を牽制する。
「……はいはい、涼宮の王子様にはかなわねえよ。誰かほか当たるわ」
 一度、数学の教師に谷口がハルヒの解答を写したのがばれて、ハルヒまで減点されたことがある。
 俺はそれから、ハルヒに解答の複写をせがんでくる奴をできるだけ追い返そうとしている。
 ハルヒの気弱な性格につけこんで、こういう事を強要してくる奴が少なからずいる。
 ……まあ、俺もハルヒに課題を写させてもらう時もあるけどな。いや、ほんとたまにだぞ。
「あ、ありがとう……キョン」
「いいってことよ。でもな、いつまでもこんなんじゃダメだぞ。ちゃんと「NO」って言えるように ならないとな」
 それは日本人全体に言えることでもあるけどな。おっと、似合わず社会に目を向けてしまった。
「う、うん。がんばってみるね」
 ハルヒはほんの少しだけ頭をかしげ、嬉しそうに答える。それは反則だ、可愛すぎる……。

 顔の作りは超絶美人の部類に入るし、成績も優秀。ここまでは完璧なんだが……どうにも気弱すぎるし 人見知りも激しい。入学当初は、クラスの誰とも言葉を交わせなかったんだぞ。
 しかし、やっぱりと言うべきかこのルックスの良さで、中学時代はハルヒとバラ色の中学時代を 送ろうとした男どもが少なからず存在したらしい。しかし、ハルヒは告白されるとあまりの緊張と 恥ずかしさに耐え切れなくなり、告白の途中でその場から逃げ出していたようだ。最後まで耐えて 聞いたら聞いたで、その気弱さゆえに拒否することができず、すべてOK。しかししかし、今度は男と 二人で並んで歩いているという状況に極度の緊張と恥ずかしさと覚え、逃げ出してしまいそのまま破局。 一番長く続いて一週間、最短で五分というのは谷口の情報だ。
 俺は入学したての時、もちろんそんなことはつゆ知らず、たまたま席がハルヒの前だったという 地の利を生かして、お近づきになっておくのもいいかなと血迷った俺を誰が責められよう。
 最初に話しかけた時は、ずっと下を向いてモジモジしながらあまりに小さい声でしゃべるもんだから、 ちょっとイラついちまったもんだ。
 しかしだ、まあこの一年いろいろあって、今俺とは普通に会話ができるように成長した。ほんの ちょこっとだが他のクラスメイトとも言葉を交わせるようにはなった。
「あ、キョン、岡部先生来たよ」
 俺は体を前に向け、朝のHRが始まる。


 
 俺は机に突っ伏して寝たりハルヒに話しかけたりしながら、いつもどおりの退屈な授業をようやく 終え、放課後という時間帯に突入した。
「あたし掃除当番だから先に部室行っててね」
「ああ、わかった。じゃあ後でな」
「うん」
 俺たちは同じ部活に入っている。
 ……まあ部活というかなんというか、とりあえず俺とハルヒが作った部活だ。
 ハルヒが俺とは少し会話ができるようになってきた頃、俺はこいつの気弱で人付き合いができない ところをなんとかしてやろうと思い、どこか部活に入ることを勧めた。
「……ぶ、部活に? あたし……そ、そんなのできない……」
 予想はしていたがハルヒは怖がって却下。そこで俺は二人で新しい部活を作ることを提案した。
 ハルヒはそれにも最初は嫌がっていたんだが、二人だけならってことでOKしてくれた。
 まあ、目的はハルヒの極度の人見知りと気弱さの改善だったから、俺は少しづつメンバーを増やして ハルヒと友達になってもらうつもりだったが。
 俺は、なるべくハルヒでも話しやすいような奴を見つけ出し、説得して入部してもらった。最終的に 三人、俺たちの部活に入部してくれた。
 かなり無口で大人しいところが、ハルヒの第一段階の修行にぴったりだと思い、入ってもらった長門。
 やはり男もいた方がいいと思い、顔もまあまあで物腰もやわらかい感じだったので入ってもらった のは古泉。しかし今となればこいつを入れたのは失敗だったぜ、まったく。
 最後に朝比奈さん、やっぱり大人しい感じだったので……すまん、嘘だ。八割がた俺の趣味だ。なんと でも言ってくれ。

 しかし、ハルヒのネーミングセンスには笑わせてもらったぜ。部の名前を決める時、
「これはお前の為の部活なんだから、名前はお前が付けた方がいい」
 とハルヒに振って、ハルヒに命名させて出てきた名前が……。
 ……SOS団。
 これが俺たちの部の名前だ。何の略かというと……ぐはっ、無理だ、笑っちまって説明できん。また 機会でもあれば説明することにしよう。
 その後は、俺が偶然集めたはずの長門、朝比奈さん、小泉の三人全員からハルヒについての とんでも告白を受けたりと、まあいろいろあって今に至るわけだ。
 
 俺はハルヒを教室に残し、一人部室へと足を運んだ。
「おや、お一人ですか?」
 古泉はチェスの駒を並べながら聞いてきた。
「ああ、ハルヒは掃除当番だ」
 俺は古泉の対面の席に座り、自分の駒を並べ始める。
「なるほど、そうですか。それより最近はほんとにいい感じですよ」
「何がだ?」
「閉鎖空間ですよ。最近はよく眠れる日々が続いていますね。あの一ヶ月前の発生以来はまだ一度も 出ていません」
 一ヶ月前……ああ、谷口のせいでハルヒも減点された時か。ハルヒ、落ち込んでたもんな。
「こないだ、涼宮さんがあなた以外のクラスメイトと言葉と交わすところも偶然拝見しました。順調 じゃないですか」
「ああ、いい傾向だと思う。もう俺に対しては自分から積極的に話しかけてくるしな」
「はは、いや実に羨ましい。あんな可愛らしい人があなたにだけ、ですよ」
「なに言ってんだ。ここのみんなにも自分から話しかけるだろ」
「でも、積極的に、はあなただけじゃないですか」
 あーもういい。こいつはどーしても俺とハルヒをくっつけたいらしい。俺も嫌ってわけじゃ ないんだが、なんていうか……まあ確かにすごく可愛いんだけどな。
「お茶です。キョン君はい、どうぞ。古泉君もはい。長門さんもはいどうぞ」
「「ありがとうございます」」
 古泉と絶妙なハーモニーを醸し出してしまったのは今世紀最大の反省点になりそうだ。
 こうして朝比奈さんの入れてくれたお茶で、俺と古泉はチェスで時間を潰し、長門は本を読む。
 そこでハルヒが超ハイテンションでやっほー! とか言いなが……な、なに考えてんだ俺。ハルヒが そんなこと言うわけねぇ。……こほん、謙虚に静かに扉を開けて、自分の席にちょこんと座る。
 こうしていつものSOS団部室の光景の完成ってわけだ。
 そんな誰にしているのかわからない説明を終えると、扉が謙虚に静かに開けられた。
 ハルヒが来たようだ。
「ご、ごめんなさい。あたし、その……お、遅れて」
「はいはい、なんでもかんでもすぐ謝らない。みんなには掃除当番だって言ってあるから大丈夫だって。 いや、大丈夫というか別に何をするってわけじゃないんだから遅れるも何もないだろ」
 俺はできるだけ優しい感じで言ってやった。

「あ……うん。そうだね」
 ああ、だからその斜め十五度スマイルはやめてくれっ。スマイル0円どころか金を出しても 欲しいスマイルを何回も見せられれば、そりゃあんた、そのうち理性だって飛んじゃいますよダンナっ。
 ……いかん、すでに別のところが飛んでしまっている。
「チェックメイトです」
「うおっ、いつのまにっ」
 ゴトッ
 俺は驚いた拍子にお茶の入った湯呑みを倒してしまった。
「熱っ」
「あ、キョンっ」
 ハルヒが心配してすぐさま駆け寄ってきてくれる。
「おやおや」
「キョン君っ」
「そのお茶の現在の温度は摂氏56度。さほど熱いと体感する温度ではないはず」
 長門の言葉で冷静になった俺は、お茶があまり熱くないことに気付いた。
「……よかった。キョン」
 ハルヒはハンカチでお茶のかかった俺の袖を拭きながら、目を細めて言う。もう押し倒しても誰も 文句は言わんだろ。
「ありがとなハルヒ。ん、ちょっと茶の葉が目に入っ――」

 ――!!

 ……なんだ今のは、記憶の断片のような、いや、記憶というか夢の断片と言った方がしっくりくる。
 それが一瞬頭をよぎった。それは……今、目に異物が入ったせいか目から血を流す俺。
 それともう一つ……さっき俺が考えちまった全然違うキャラのハルヒ。
 ……ふう。
 きっと今日は疲れてるんだろう。早いこと帰って休んだ方がよさそうだ。
「すまん、みんな。今日はもう帰ることにするよ」
「……え。キョ、キョン……大丈夫?」
「どうしたんですか。やはり先程のお茶ですか?」
 みんな心配そうな視線を俺に向ける。
「ああ、別になんでもない。じゃまた明日な」
 俺はカバンを取り、部室を後にした。

 しかし、さっきのはなんなんだ。夢にしてはリアルだが、実際の記憶に比べれば現実感に欠ける。
 うーん、一年も宇宙人未来人超能力者に囲まれた生活のおかげで、とうとう俺にも何か能力が 備わったのか。ハルヒ、とうとうお前の周りには一般人はいなくなってしまったぞ。
 ……そうでないことを切実に願うぜ。
 俺の凡人でありつづける才能をなめんなよ。
 ……いかん、また意味のわからん日本語をぼやいている。
 俺は足早に帰路に付き、もうこの事は考えないようにした。今日は早めに寝るか。
 
 

 その後三日間は特にこれといったことはなく、いつもどおり平和な日常を送っていた。のだが……
「お、ハルヒ、そういえばそのコート初めて見るな。新しく買ったのか?」
「あ……うん」
 昼休み、俺とハルヒは校庭の隅のグラウンドが見渡せる場所を陣取り、並んで座っている。野球を しているのをぼんやりと見ながら、ほのぼのトークだ。
 普段俺は弁当でハルヒは一人で学食なんだが、今日は俺は弁当がないので、珍しくハルヒと一緒に 学食で昼食を済ませた。ハルヒはいつも学食から教室に戻ると、そのまま一歩も教室から出ないのだが、 いい機会なので学食から出てそのまま校内散歩をしようと提案した。
「でも、もうすぐ暖かくなってくるんじゃないか? ちょっともったいないぞ」
「うん、でも前のコートが破れかけてて……や、やっぱりもったいなかったかな……」
 ハルヒは残念そうに下を向く。
「うーん、ま、やっぱりいいんじゃないか。それ、可愛いデザインでお前らしいと思うぞ」
「え、え?……あ、ありがとうキョン」
 今度はうって変わって顔を赤くして照れている。プチカメレオンだな。これで可愛くなかったら 口に出してそれを言っているところだ。
 ……ひでぇな俺。こんなこと本当に口にすれば、ありとあらゆる罵声をハルヒに浴びせられ……
 ――まただ。
 またこないだと同じハルヒのキャラが頭に浮かんだ。どうも最近おかしい。
 気を取り直して、今の暴言を深く反省しつつグラウンドに視線を戻す。
 その時だった。
 グラウンドであっちこっち飛び回っていた軟式ボールが、俺目掛けて飛んできていた。
 
 ――ぐあっ。

 痛てえ。
「キョン!」
 目に直撃しかけた。正確には右目より少し外側のあたりに当たった。って、また目かよ。

『あたしの右目あげるから』

 ――え?

『えぐっ…キョン君の目、目がぁ……うぐっ』

 ――なんなんだ。
 
 こないだのより確実に現実味を帯びた夢の断片。
 ……いや、もうこれは夢の範囲を大きく超えた感じ、実際の記憶に近い。
「キ、キョン……大丈夫? キョン……」
「ああ、大丈夫だ。心配するほどのもんじゃない」
 少しクラクラする……頭に近い場所に当たったからか。
 痛っ。
 
 ――!!

『……うそ……嘘、よね?』
     『……健気』       『……残念ですが、これは消しゴムでは……』
  『キョーン、来てあげたわよー!』
            『急ぎましょう』

 ――そうか、これは……

    『あ、あーなんか音楽聴きたくなったのよねー』
 『キョン君、大丈夫ですかぁ?』        『何すんのよ……バカっ!!』
        『僕は涼宮さんに失明の事実を伝えるのは反対ではありません』

 ――そうだった。


『涼宮ハルヒ自身の人格の大幅な改変が予想される』


 ――全部思い出した。


「ハルヒっ、すまん、先に教室に戻っててくれっ」
「え? キョン?」
 俺はすぐさま部室に向かって走り出していた。
 なんてこった。くそっ、これはいつからだ? 確か失明したのをハルヒに知られた日は……。
 ちっ、七日間も気付かなかったのか俺は。
 頼むぜ、いてくれよ。いるんだろ部室に。そしてこのことに気付いててくれよ。
 あぶなかったぜ。たまたま短期間に二回も目に刺激があったから気付いたものの。
 ……たまたまか? あまりにも話が出来過ぎてる。
 そうか、あいつが操作したんだとすれば納得できる。俺に気付かせるために。
 だとすればあいつは今確実に部室にいる。そして俺よりも早く気付いている。
 くそっ。足遅せぇな俺。
 息を切らしながら到着し、ノックもせずに勢いよく扉を開けた。
「長門っ、お前は気付いてるんだろ!?」
 部室に入るや否や、問いただした。
「気付いているというのは語弊がある。正確には最初から知っていた」
「知っていた? どういうことだ」
「今のわたしは、この時間平面上のわたしではない」
「時間平……そうか、俺に知らせるために未来から来たってことか?それで最初から知ってるんだな?」
「違う。相違点が二つある。このインターフェイス自体はこの時間平面上のもの」
 また俺には意味わかんねぇ話になってきた。
「簡単に言うと、肉体はこの時間平面上のわたしのもの。記憶、思考に関してこの時間平面上のわたし ではない」
「なるほど、中身だけ未来のお前ってことか」
「そこがもう一つの相違点。この時間平面上から見て未来ではない。過去のわたし」
「な……過去だと? ちょっと待て、じゃあなんでこのことを知ってるんだ」
「過去といっても大幅な時間量ではない。今から言えばほんの数日前。正確にはあなたの手術が終わる 直前の時間平面」
「俺が失明するのを感じ取ったってわけか」
「そう。手術がほぼ終了したのを見計らい、手術室内の医療機器の情報を解析、あなたが失明したことを 知った。そうなれば涼宮ハルヒによって時空改変が起こること、そしてその改変内容は容易に予測 できた。そこでわたしは未来のわたしと同期を取ることを申請し、精神をこの時間平面上のわたしと 連結した」
「……わかったようなわかんねぇような。しかし、よくそんなことできたな」
「涼宮ハルヒの性格の内向化は、自律進化の可能性を著しく低下させる。情報統合思念体にとっては 不都合。わりと簡単に申請は受理された」
「……いや、そういう意味じゃなくてだな。お前、古泉と一緒に待ってたんじゃないのか? 古泉に 何て言って来たんだ?」
「心配ない。わたしはトイレに行っていることになっている」
「……トイレって、まさか何日もトイレに入ってることにしてんのかよ」
「この世界では数日でも、あちらでは数秒の出来事ということにしている」

 そうか、俺が病室で意識が戻ったとき、長門もいたもんな。ここでの時間の流れがそのまま向こうでの 時間の流れと同じなら、俺は手術が終わってから一度も長門に会うことはできないことになる。
「それにしても、そんなめんどくさい事してまで、なんで過去からなんだ? 未来から来た方が先の事を わかってるからやりやすいだろうし、古泉の目を盗んでとかも必要ないだろ」
「もし、あなたが時空改変に気付かなければ改変前の記憶を持ったわたしは未来に存在しない。あなたが 気付かない可能性も否定できない。未来に頼るのは危険と判断した」
 ……確かに、長門のアプローチがなければ俺は気付かなかったかもしれない。
「改変されて、どれくらいから過去のお前だったんだ?」
「改変から九分二十秒後」
「ってことはほぼずっと過去のお前だったってわけかよ。俺が気付くのをずっと待つためか?」
「それも一つの理由。もう一つは、再改変プログラムを早急に作成するため。わたしのようなインター フェイスが起こした改変なら、再改変プログラムは容易に作成できる。しかし、涼宮ハルヒによって 改変された時空を元に戻すのは容易ではない。実際にその改変時空に身を置き、その本人がプログラムを 組まなければならない。時間も大量に必要とする。睡眠中もプログラムの作成を進めていたとしても、 一週間ほど必要」
「なるほど、それで一週間たってプログラムが出来上がって、俺を気付かせようとしたわけか」
「そう」
「で、俺はどうすればいい?」
「その前に、あなたは元の世界に戻りたい?」
「……え?」
 ……そうだった。世界を元に戻せば、俺は生涯視力を失ったままだ。
 今までの癖で、無意識に元に戻す方向に行動してしまったが……どうなんだ?
「あなたが望まなければ、再改変は必要ないとわたしは感じている」
「お前の仲間は、ハルヒの今の性格は都合が悪いんじゃなかったのか?」
「情報統合思念体としてはそう。でも、わたし個人としては……あなたの視力がある世界が望ましいと 感じている」
「……そうか。ありがとな、長門。後でお前も聞くことになると思うが、古泉と朝比奈さんも同じことを 言ってくれたよ」
「……そう」
 みんながこう思ってくれてるのは、すごく嬉しい。
 だが、俺はどう思ってるんだ? 元に戻したいのか?……自分でわかんねぇ。
「あなたが元の世界を望むのであれば、これを涼宮ハルヒの身体に」
 そう言って、長門が俺に渡してきたのは……元学級委員長のおかげで目にするのも嫌になった、
アーミーナイフだった。
 おいおい、これでハルヒを刺せってか。もっと別の方法はなかったのかよ。
「大丈夫、負傷させることはない。プログラムが発動するだけ」
 いや、そうわかっていてもだな……。
「涼宮ハルヒ以外の有機生命体に使用すれば、実際に刺してしまうから注意して」
「刺すかっ」
 なんか、世界を元に戻すのに余計に覚悟がいるようになってしまったじゃないか。

「答えを出すのはいつでもいい。よく考えて」
「……ああ」
「わたしは元の時間平面に戻る。後はあなた次第」
「わかった、じゃあな。ありがとう、本当に感謝するよ」
 長門に心からの礼を言い、もうすぐ午後の授業が始まる時間だというのに気付き、俺は部室を あとにした。

 
 俺は世界を元に戻したいんだろうか。
 再改変すればハルヒを元に戻せる……が、俺の視力と引き換えに、だ。
 それに、ハルヒを元に戻してどうなる? 今のままでもみんなは変わらないし、ちゃんとSOS団 だって存在してる。他の俺の知り合いも、元の世界と比べてなんら変化はない。
 ……そうだ、元に戻す必要なんてないじゃないか。
 俺の目が見えている方がみんなに迷惑もかけずに済む。
 ……だがあの時、あの時も俺は平和な世界とあの可愛い長門を捨て、エンターキーを押した。
 今一度エンターキーを押さなければ、あの時の行動は無駄になるような気がしてならない。
 今だから思う。長門、古泉、朝比奈さん、それぞれがハルヒに対してなんらかの役割がある。
 だとすると俺は、ハルヒが変えた世界に対してエンターキーを押すのが俺の役割、いや、使命 なんじゃないかと。
 ……そうだ、例え自分の視力が奪われようとも、俺はこれからもエンターキーを押し続けなれば ならない。それが、あの時エンターキーを押した自分に対して課せられた使命であり、けじめ なんだと思う。
 俺は決意した。


 本日最後のチャイムが鳴った。今日のそのチャイムは、授業以外の何か別の終焉を示唆するかの ように聞こえた。
「ハルヒ、部室に行く前にちょっと付き合ってくれないか?」
「え? あ、うん、いいよ」
 俺はハルヒを屋上へ連れ出した。ハルヒは……嬉しそうに微笑みながら俺についてきた。
「ねえ、キョン、ど、どうしたの? こんなことに来て……」
 ハルヒは少し照れた様子で、少し俯きぎみで言う。
 俺は少し間を置いて、長門から渡されたナイフを取り出し、ハルヒに向かって構えた。
「……え? キ、キョン?」
 さっきまでの嬉しそうな表情が、一瞬にして不安と恐怖の色に変わる。
「……ハルヒ、すまん。ちょっとだけ我慢してくれ」
「え?……ど、どうしたの? どうしちゃったの? キ……キョン……いや」
 ハルヒは震え、懇願するように俺に言う。
 ……くそっ。こいつのこんな表情、見てらんねぇ。
「ハルヒ、信じられないかもしれないが痛みは全く感じない。本当だ。俺を信じろ」
「……い、いや……どうして?……キョン……お、お願いだから……」
「ハルヒっ。頼むから信じてくれっ」
 ハルヒの可愛い顔に涙が伝う。
 やめてくれ……なんで、なんでこんな思いしなきゃなんねぇんだよ。こんなハルヒを刺せるわけ ないだろうがっ。
「……ぐすっ……キョン、キョン……ぐすっ…」
 ちくしょう。わかってる、わかってるさ。刺しても本当に痛みはない。
 でもな……そうだよ、世界を元に戻せば、こんなに可愛いハルヒがいなくなってしまうんだ。
 なにもこんな思いまでして世界を元に戻さなくてもいいじゃないか。
 今のハルヒは、朝比奈さんと比べても頭一つ抜け出て可愛いんだぞ。
「……キ…キョン…ぐすっ」
 ナイフを握る手に力が入り過ぎ、震えている。
「……いや……いや…」
 くそっ。
 情けねぇ。
「……すまなかった、ハルヒ。今のことは忘れてくれ……」
 ……俺は、ナイフにカバーを被せ、ポケットにしまった。
 ハルヒは呆然として、その場に座り込んだまま動かない。
 俺はハルヒに背中を向け、静かに屋上の出入り口を開いた。
 
 ……これで、よかったんだよな。
 俺は自問自答する。
 ……こんな思いを味わったんだ。誰も俺を責めるやつなんていないだろ。
 長門、せっかく作ってくれたプログラムなのにすまない。
 
 しかし、今のハルヒは元のハルヒとはほんと別人だな。曲りなりにも俺は朝比奈さんよりも 可愛いとか思ってしまったんだからな。
 女の子はやっぱ見た目も重要だが、性格の重要度をいやというほど思い知らされたぜ。
 元のハルヒときたら、うるさくて乱暴で自己中で無茶苦茶で……まあ、でもいざという時だけ仲間の ことを第一に考えてくれて……ああ、俺が三日間意識が戻らなかった時もずっと泊り込みで看病して くれたっけ。
 ……なんだこれは。なぜこんな、今の世界のハルヒを選んだ俺らしからぬことを考えているんだ。
 いや、考えてるというか……自然に頭をよぎる。
 これで……本当にこれでよかったのか?

 なんだかんだ言って、俺はあいつの満面の笑顔を見ながら、投げ縄の如く振り回される毎日が 楽しかったのかもしれない。
 いつもあいつがとんでもない事を言い出して、それに振り回されて、けったいな事に巻き込まれて。
 俺も文句は言うが、結局最後まで付き合って、で最後にまたあいつの笑顔を見て。
 ほとんど笑顔か怒ってるかだもんなあいつは。 
 ああ、俺が失明したのを知られた時、初めてあいつが泣いてるのを見た、てゆうか聞いたんだっけ。
 
 ……俺のために泣いてくれたんだよな。あの時は必死で、そのことに頭が回らなかった。 

 ハルヒに失明のことを隠してたのも、あいつには心配させたくなかったから。
 ……だけじゃない。
 ああそうだ……俺は、世界が改変されて俺の知ってるあいつを失うのが怖かったんだ。
 
 じゃあなんなんだ? なぜ俺はハルヒを失うことに対して拒否感を覚えていたんだ?
 俺にとってハルヒとはどういう存在なんだ?
 ……同じだ。あの時と。
 あの五月の閉鎖空間でも、俺は同じような問いを自分に投げかけた。
 ハルヒは俺にとってただのクラスメートじゃない。
 もちろん進化の可能性でも、時間の歪みでも、ましてや神様でもない。
 ……そう、ここまでは、あの五月の時点ですでに解かれている。
 要はその先。俺は持ち合わせてなどいないと言った、決定的な解答。
 あれから十ヶ月近く傍でハルヒを見てきた。いろんなハルヒをだ。
 笑ったハルヒ。そして怒ったハルヒ。はたまた戸惑うハルヒ。ちょっとだけ優しいハルヒ……。
 他にハルヒをどういう風に形容すればいいんだ。
 
 ……いや、違う。そういうことじゃない。
 
 何か根本的に考え方を間違っている。
  

『……や、やめてよ。そんな……あたしのせいで……キョンが』


 ――俺は


『……そっか。よかった…』


 ――俺はどうしたい?


『ちょっとキョン! どこ行ってたのよもう!』
 
 
 ――俺はハルヒに対してどうしたいんだ?


『…なんで……なんでなのよ……あんたが見えるんなら、あたしの片目くらい………』

 

 ――俺はハルヒを……
 



 俺にとってのハルヒ。



 ……ハルヒ。







 ……ハルヒ……会いてぇ。


 
 ……ハルヒに会いてぇよ。





 
 
 ――ああ、そうか。






 ――そうだったのか。
 
 




 ――アホだ俺は。
 
 

 ――真性のアホだ。


 


 なに難しいことを考えてんだ。

 こんなに遠回りして、追い詰められて
 
 ようやくこんな簡単なことに気付くなんてな。

 



 ――そう、俺は

 
  


 
 ――俺はハルヒのことが











       ――ずっと好きだったんだ。






 

 俺は屋上から降りる階段をもう一度走って登る。



 ――まってろハルヒ。

 
 俺は今一度




 
 

  ――お前を取り戻しに行く。




 そして再び、俺は屋上の出入り口の扉を開く。

 もう一度、エンターキーを押すために。









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