いつもどおりの平日の朝。朝日が窓から差し込み……なんてのは医学的に俺は体感できる状態にない。
 俺は妹から手渡しで制服を受け取り、急いで着替える。
「も〜キョン君早く早く」
 足をジタバタさせて妹が急かしてくる。
「あーもう、うるせぇ。これでも急いでるんだがな」
 俺が着替え終わるや否や、俺の手を取り玄関へと直行する。
「ま、待て待て。急いだらあぶないだろっ。ちゃんと障害物を気にして先導してくれ」
「早くしないとダーメ。ハルにゃんが外で待ってるんだからー」
「おい、朝飯はどう――」
「とうちゃーく」
 妹は勢いよく玄関のドアを開ける。
 そしてそこには……
「遅いっ! 遅い遅い遅い!罰金っ」
 聞き慣れた、そして現在に至っては愛しいという感情すら覚えるあいつの声があった。
 ハルヒは毎朝、登校がてら我が家まで足を伸ばし、俺を学校まで送ってくれている。
「ハルヒ、毎日ありがとな」
「あんたはそんなこと気にしなくていいの。黙ってあたしに送られてなさい」
 今、ハルヒは俺のほぼ専属介護士かのような状態になっている。通学帰宅はもちろん、学校内でも ほぼ俺に付きっきりだ。
 まあ嬉しいんだが、それだけでは済まず、何の連絡もよこさず我が家という俺の唯一のプライベート テリトリー内を侵してきやがるのは勘弁して欲しいぜ。俺があられもない行為の真っ最中だったら どうするんだ、まったく。
 せっかくハルヒが無理矢理、俺とハルヒの携帯をラブ定額にしやがったんだから電話してから来い。
 俺のプライバシーがなくなりかねん。
 
 学校でもハルヒの専属介護士ぶりは極限を極めている。
 今、教室の俺の席はハルヒの横になっている。横っていっても単なる横隣じゃあない。なんか急に めずらしく俺を置いて教室から出て行ったと思えば、ガガガガと何かを引きずる音と共に戻ってきた じゃないか。二人掛けの長机を持ってきやがったのだ。最初は教師たちもやめるようには言うのだが、 ハルヒの奇人ぶりは北高に関わるすべての人間の常識になっているので、すぐに誰もなにも言わなく なった。しっかりしてくれよ、まったく。
 そうそう、男子トイレの入室許可を取るとか言い出した時はマジで焦った。なんとか説得して 止めたが、ハルヒは不満爆発だったな。
 昼食は、ハルヒはいつも学食だったのだが、今は通学途中コンビニで買ってくるか、たまに自分で 弁当を作ってきたりしている。
 ……そう、俺と一緒に食べるためだ。しかも……こんな感じでだ。
「今日は卵焼き、から揚げ、きんぴら、プチトマト、真ん中に梅干のご飯、どれ?」
「……そ、そうだな」
「早く言いなさいよ。あたしの食べる時間が減るじゃないの」
「……じゃあ卵焼きで」
「はい、口開けて」
「な、なあハルヒ。俺の箸を卵焼きまで持っていってくれれば自分――」
「早くしなさいっ」
 ……とまあ、傍から見れば完全なバカップル状態なわけで。視覚がない分、恥ずかしさが半減される のが不幸中の幸いだ。
 
 SOS団部室での俺の席もまた、今は長机での団長様の隣である。
 俺がパソコンをいじれなくなったもんだから、ハルヒは古泉や長門に教えてもらって、ネット以外も そこそこ出来るようになった。長門が教えようとしたのがコマンドプロンプトだけだったような気も するが。きっと俺のいないところでちゃんと教えてたに違いない。ああ、きっとそうだ。
「さあ、今日は昨日やりかけてたやつを完成させるわよ」
 カタカタカタカタ
 ん? なんだ? なんでその作業でキーボードを叩く音なんだ?
 カタカタカタカタッカタカタカタ
「……ハルヒ、それはコマンドプロンプトでやらんでいい……」
「ん? そうなの? だって有希が……」
「……あいつは特別だ」
 古泉、なんで指摘してやらんのだ。
「いやあ、おもしろかったんでつい」
 
 最後のは余談だが、こうしてハルヒは無茶苦茶なりにも、ほぼ俺のためと言っても過言ではない毎日を 過ごしている。

 そして、今日も長門の本を閉じる音でSOS団の活動が終わり、それぞれが帰路につく。
 俺はもちろん、ハルヒの手に引かれながら、だ。
「今日はあんた、めずらしく一度も足引っ掛けなかったわね」
 俺は情けないことに、一日一回は何かに足を引っ掛け、転びそうになるのだ。
「そういえば、そうだな。ハルヒの献身的な介護のおかげかもな」
「ん、よくわかってるじゃない。これからもその気持ちを大事にしなさいよ」
 おそらく、お前が思ってる以上に大事にしてるはずだ。
「大事にしてるさ。ハルヒ、いつもありがとう。本当に感謝してる」
「……な、なに似合わないこと言ってんのよ。ほら、さっさと歩きなさい!」
 お前への本当の気持ちを我慢してんだ。これくらい言わせてくれ。
「俺は真剣にそう思ってるんだぞ」
 ハルヒは照れているのか、無言になった。繋いでいる華奢な手が少し熱くなったような気がした。
 少しの間、二人の足音のみの時間が続く。
 そんな短い沈黙を破ったのはハルヒだった。
「ねえキョン。あんたまた……夜に眠れなくなったりしてない?」
 
 俺は元の世界に戻って最初の失明生活の数日間、夜中に目を覚ます日が続いた。目を覚ますと いっても、意識は戻るがもちろん目は見えていない。
 睡眠中、俺はとてつもない恐怖感に襲われた。寝てようが起きてようが、俺の視界は暗闇一辺倒の 世界。そして夜中、街中が静かになり音もしなくなる。
 何も見えない聞こえない誰もいない状況。俺は生きてるのか死んでるのかもわからなくなり、 恐怖と孤独で気が狂いそうになった。
 手、足、そして体全体が異常に震え出す。経験したことのない痙攣。一人きりという状況に限界を 感じた。そして、涙が止まらなかった。
 俺は気が付くと、ハルヒに電話をかけようとしていた。
『ちょっと……あんた今何時だと思ってんのよ……』
 ハルヒの寝起きで不機嫌そうな声が耳に届いた。 
「ハ、ハル……ヒ……お、お…俺……お…俺…」
 もう自分とは程遠い人物像だった。まともに言葉を紡ぐことすらできなかった。
『キョン?……ちょ、ちょっと、ほんとにあんた?……』
「も…もう……お、俺……こ…怖い……こわ…い…」
『ちょっ…キョン……キョンっ!! 大丈夫、大丈夫だからっ! 今から、今から行くから待ってるのよ!』
 俺はただひたすら待った。恐怖と孤独で自分が壊れないように必死で気を強く持ちながら。
 早く、早く誰かに触れたい。
 ハルヒの到着の早さは、目を見張るものがあった。
 ……こんな夜中に、窓の外からハルヒの声が聞こえる。ああ、母親の声もするな。
 震えは一向に治まる気配がない。
 ドタドタと階段を登る足音。そしてすぐに俺の部屋のドアが開かれた。
「キョンっ!」
 聞きなれた声の主が俺との距離を瞬時に詰めた。
「キョン、もう大丈夫……大丈夫よ」
 ハルヒは、震えながら涙を流す俺の頭を抱え込み、優しくなだめてくれた。
 ハルヒの腕の中は、とても温かった。
「ハ、ハルヒ……俺…俺っ」
「わかった、わかったから。今はあたしに甘えなさい……」
 ハルヒの、俺の頭を撫でるという行為が、急速に安心感をもたらす。
 体の震えが鎮まっていく。
 自然に、自分の頭をハルヒの肩に預ける。 
「寝てても起きてても同じ……同じ暗闇なんだ。それに……みんなが寝ると、何も音がしないんだ」
 俺は、しゃべることが出来るということを確認するように、ゆっくりと口を動かした。
 俺の頭を抱える力が、少し強くなった。
「キョン……そう。でも、もう安心しなさい。これからはあたしが付いててあげるから」
「……ハルヒ」
「これから、夜中にこんなことになりそうになったら、絶対あたしに電話すること。いいわね」
「……いいのか? 俺、これから当分、毎日こうなるかもしれないんだぞ……」
「そうなったらあんた、あたしが電話するなって言ってもどうせしてくるでしょ」
「ハルヒ……ありがとう。ほんとにありがとな」
「いいのよ。もう落ちついたでしょ、寝なさい」
 俺は再びベッドに横たわり、眠りについた。
 俺が寝るまで、ハルヒはずっと俺の手を握ってくれていた。 
 

 俺は足を止めて、この夜中の出来事を思い出していた。
「ああ、もう大丈夫だ。最近はちゃんと眠れてる」
「そう。ならいいわ。また……もしあんなことがあったら、電話してくるのよ」
 この出来事で、よりハルヒに対する気持ちが強くなった気がする。
 やべぇ、絶対近いうちに口が滑ってしまいそうだ。
 いかん、でも今は……今はまだ……


 ……そう、今はまだ言えない。
 
 
 でも、いつか、完全に今の俺の状態が落ち着いたら言おうと思う。
 
 
 ――俺のハルヒへの気持ち、すべてを。


 俺は無意識にハルヒの頭を優しく撫でていた。
 あの日の夜中、ハルヒが俺にそうしてくれたように。
 華奢な手が、また少し熱を帯びた。
 
 そしてその時、撫でている方の手が、いつもはないはずの後頭部の髪の突起に当たった。


 ――ポニーテール


 俺は一つの短い台詞を思い出した。 

 


 

 そう、今はまだ言えない。




 だから、この言葉が今の俺の精一杯。






 今度はありったけの気持ちを込めて。





「なあ、ハルヒ」 

 



 ――あの時の台詞を





「なによ」
 




 ――今一度







  

    「――似合ってるぞ」



 
 今ハルヒは、どんな顔をしているのだろうか。
 もし微笑んでくれているのなら、俺は少し嬉しい。






                              ――――二度目の選択