『アッフォガート』

 

「また会えるようにって考えてたんだよ」

 彼女は車を降りてドアを閉じる間際、そう言った。何かを問い返す間もなくドアを閉め、彼女はすばやく門を開けて自宅へと入っていった。残された僕はゆっくりとアクセルを踏みながら、今日のことを考えていた。すなわち、彼女とのわずか数時間を。

 彼女、エミとは半年前に別れていた。エミは僕に別れを告げ、一方的に連絡を取らなくなった。なんと言って僕に別れを告げたのか、それをここで正確に記すことはできない。なぜなら、僕は彼女の言葉をうまく処理できず、理由もわからないまま別れの前後を過ごしたのだ。例えば「他に好きな人ができた」とか「一緒にいても楽しくない」とかいったはっきりいった理由があるならわかる。しかし、僕の記憶の限りそういった分かりやすい理由ではなく、もっと不可解な、いうなれば「海の中で塩分量が水分量の許容範囲を超えたから」といったようなよく分からない理由であったことだけは覚えている。とにかく、そのやり取りの後彼女は疎遠になり、僕は孤独の現実の中に取り残された。

 それは全くの偶然と思って欲しいが、その2ヵ月後、僕はある女性と出会い彼女と深い関係になった。その女性はカーコという子だった。カーコは天真爛漫に僕の心に入り込み、僕の心を奪っていったのであるがそれは別の物語に委ねよう。今はエミとの物語なのだ。カーコと出会ってから4ヶ月、付き合い始めてから3ヶ月後、エミから突然の連絡があった。付き合っていた時貸し借りしていた本を返しあおう、と。

 そのメールから1週間後、僕はエミと向かい合っていた。僕らが住んでいる地方都市では比較的おしゃれなレストラン、付き合っていたときには来たくても叶わなかった店だった。もともと趣味が似通った二人だった。過去の話には触れずに、最近見た映画や、読んだ本や、ハマっているテレビドラマなんかの話で盛り上がった。彼女が僕より少し遅れてメインを食べ終わると、ボーイが食器を下げながらアッフォガートを運んできた。配膳の間、少し長めの沈黙となった。その沈黙のまま、熱いエスプレッソを注ぐ。温められたアイスクリームがエスプレッソの濃褐色に混ざって溶けていく。二人の時間はやわらかな冷たい壁を壊し、溶けていく。

「今彼女いるの?」ふいにエミが口を開いた。

「いや、うん、まぁ、いちおうね」と咄嗟に答える。

「そうなんだ! どんなひと?」といかにも楽しそうに聞いてくるエミ。

なぜかバツの悪さを感じ、

「オレの話はいいよー。エミは?」と切り返す。

「わたしも……いるよ」と彼女は言った。

少し残念な、逆にほっとしたような、複雑な気持ちになった。

「 」僕は何かを言おうとしたが、被せるように彼女は大げさに言った。

「おいしい!」

そこから話題は甘いもの談義となり、微妙な空気はなりをひそめていった。

 

 店を出ると、少し歩いたところにあるバッティングセンターに向かった。

「ちょっと身体動かして行こうか」と車をレストランの駐車場に停めたまま向かう。

「私、結構打てるんだよ」そう言う彼女に、誰ときたんだ? 新しいオトコときたのか? なんて自分に彼女がいることを棚に上げるようなことを思ったりする。むろん口に出すなんてことはしない。そもそもエミと付き合っていたころだって、ちょっとした疑いや嫉妬心を出せずにいたことに思い当たった。カーコに対してもそうだ。気の小さい男と思われたくなくて、そう努めている自分がいた。逆ならどうするだろう。今日のこと、エミ、すなわちモトカノと会うことは話していないけど、僕と同じように気付かない振りをしているだけなのだろうか。エミの今の彼氏はどうだろう。……まぁいい。今日はこうして、昔の恋人と「何となく感傷」の時間でいいのだ。特に問題にするようなことなどないのだ。そう自分に言い聞かせる。

「そうなんだ。何? 彼氏ときたの?」と聞くと

「まぁねー」なんて答える。

やっぱりか。仲良さそうにやってるじゃん。今はお互い、それぞれ新しい未来を選んで生きているのだ。そのためにお互い貸し借りしていた本を渡し、それぞれのこれからの生活に戻っていくのだ。そのためのイニシエーション、儀式みたいなものなんだ。

 

「お前のためにホームランを打つ!」もちろん本気ではなく、くだらない冗談で言う。

「バカじゃん」彼女はそう言いながら、楽しそうでもある。エミは確かに、女性としては結構打てる方だった。それでも110キロの打席では「無理無理! 怖い!」と、ちゃんと女性らしい一面も見せていた。何ゲームか打った後で、「ねぇ、ここで打ってみてよ」と120キロの打席で打つように促してきた。

……早い! とても打てる気がしない。野球選手ってこれよりも早いボールを余裕で打っている。化け物だアイツら。経験のない僕には無理だ。が、お前のために打つなんて冗談でも言った手前、それなりのカタチにはしたいところでもある。前半10球で少しは早さにも慣れてきた。15球目、いい感じの当たりだった。球場ならセンター前クリーンヒットといったところか。あと5球。よぅしと気合を入れると、後ろでエミがちゃかしてくる。

「ねぇホームラン打つんでしょ」ハナっから冗談めかした口調。いや、確かに冗談ではあるけれど、だからこそ打ちたい気持ちが強くなる。

 そして迎えた18球目だった。真ん中の高めにきたボールに対し、スッと身体が反応した。往年の落合博満(最近の野球選手はあまり知らない)が乗り移ったかのようだった。打球はセンターよりもわずかに右、右中間に一直線に飛んでいく。その先にはネットに貼られたホームランのボード。ボコン。と乾いた音が聞こえた瞬間、その存在に気付きもしなかったネオンが様々に点滅し、いかにもおめでたいファンファーレが場内に流れた。

「うわ! マジで!」エミは立ち上がって、飛び上がって拍手をした。残りの2球なんてどうでもよくなった。僕はガッツポーズをし、打席から出て、エミとハイタッチをする。

「どうよ?」得意げに言う。

「すごい! でもマグレでしょ」相変わらず憎まれ口の彼女だが、顔は皮肉ではない笑顔のままだ。かわいいなぁ。素直にそう思った。こういう、素直な態度の中で言葉はちょっと憎まれ口を言ってしまう。あの頃、本当にそういうところに心がぎゅっとして抱きしめたくなったものだ。そして抱きしめるとすぐに逃れようとするのだ。そこが更に愛おしくて、たまらない気持ちにさせられたものだった。だが今はさすがにそんなことはできない。できない代わりに、自分でも意外な言葉が出た。

「今度は彼氏に打ってもらいなよ」

 あるいは自分にブレーキをかけなくてはいけないという気持ちから発せられた言葉なのかもしれない。もしくは彼氏に対するくだらない対抗心なのだろうか。いずれにせよ、彼女の笑顔が少し歪み、ベンチに置いてあったバッグを取るためか僕に背を向けた。背を向けながら、ほとんど聞こえない声で彼女はつぶやいた。聞こえなかったわけではない。が、はっきり聞こえたわけでもなかったため、僕はその言葉を聞こえない振りをして「ん? 何?」と聞きなおした。

「ううん。何でもない。帰ろっか」そう言って彼女はカウンターへと足を進めた。カウンターでホームラン賞を受け取りながら、空耳ではないだろうと何度も考えた。そう。彼女は確かに言ったのだ。意図してかどうかは分からないけれど、聞こえるか聞こえないかの声で確かに。

「いたらね」と。

 

 帰りの車の中。久しぶりに彼女が助手席に座っている。決して長い付き合いではなかったけれど、当時の記憶が蘇る。彼女と初めてキスをしたのはこの車内だった。あれは映画の帰りだったか、あるいはどこかで食事した後だったか。正式に付き合う何日か前のことだった。あのキスから、僕らの関係は確かなものに変わっていったのだった。それからおよそ2年の月日が経ち、僕らはそれぞれ別の確かな関係の脇道として、この車内にいる。いるはずなのに、さっきの言葉がどうしても引っかかっていた。「いたらね」と彼女が確かに言ったのなら、つまりそれは「彼氏がいる」というのは嘘ということになる。どうしてそんな嘘をついたのだろう。どうして今日会おうと彼女は言ってきたのだろう。聞いても「いたらね、なんて言ってない」と彼女は言うだろう。本気で反論してくるだろう。そういう性格なのだ彼女は。僕はうまい会話の糸口が見つからず、彼女は彼女で、全く関係の無い世間話をしただけで、窓の外の過ぎ行く景色を眺めていた。そうしてほとんど沈黙に支配される中、彼女の家が近づいていた。そうだ。今日のきっかけは貸し借りしていた本を返しあうことだったのだ。やっとのことでそう思い出したのは既に彼女の家の前だった。

 車を左に寄せて停める。僕は持ってきていた本をドアポケットから出し、彼女に渡した。努めて明るく「はい」と言いながら。彼女は笑顔ともなんとも言えない表情で本を受け取りながら言った。

「ごめんね。忘れちゃったの」

「そうなんだ。いいよ、いつでも。最悪送ってくれてもいいし」と、咄嗟に口にした。うまく思考は回っていなかった。彼女はすぐには答えず、車を降りると、ドアを閉じる間際に言った。今度ははっきりと聞こえる声で、はき捨てるように。

「また会えるようにって考えてたんだよ」

 何かを問い返す間もなくドアを閉め、彼女はすばやく門を開けて自宅へと入っていった。思考回路はうまく働かず、そんな彼女をただ見ていることしかできなかった。少しの時間の後、残された僕はゆっくりとアクセルを踏みながら、今日のことを考えていた。そして彼女の言葉ひとつひとつを思い出していた。僕にとっては、過ぎし日の感傷とも言うべき時間だった。しかし恐らく、彼女にとっての今日の時間は、別のものだったのだろう。僕は、これからを思った。たとえそうだとしても、僕はカーコとのこれからを続けるだろう。エミとの未来はもう既に、あのときに終わったのだ。あのとき、エミが口にした別れの言葉の真意はいまだに理解できないけれど、感じた無力感ははっきりとこの身に残っている。そして、それを補ってあまりあるカーコという存在がいる。

 走り出した車から、エミの家は後ろに少しずつ遠ざかって行く。目の前の道は街灯に照らされているが、その先まで見通すことはできない。それでも走っていかなくてはいけない。この道が、僕の未来へとつながっていると信じて。