レトロなボードゲームの対局者に俺が拝命されることも無く、ひとり面を伏せて黙々とパズルのピースを当て嵌めている古泉。
 なかなかに珍しくはあるが、これを珍事と言えば響きは大袈裟で、これくらいでは挙止が進むことも退くこともない。水母にだって骨は有るかもしれないのだ。
 要するに、いい加減見飽きてきた部室の日常であり、そこに水を差す輩だっていい加減誰もが予想しうるこの人物である。
「何、あのメガネ会長。こっちはどんな無理難題にも対応できるように色々予想してあげてたっていうのに、拍子抜けも甚だしいったらありゃしないわ」
 騒音計の針を振り切りかねない扉の音と共に、長門を引き連れて部室に入るや否や不満の声を上げる我らが団長。
 昨年度末に続き、またもや長門があの機関お抱えの生徒会長に呼び出しを食らったらしく、今しがたそこからの帰還を果たしたようである。
「生徒会室に行ってきたのか。で、あの会長、今度は何を言ってきたんだ?」
 我役目を果たしたりと、さっそく定位置のパイプイスに流れ込む長門を確認しつつ、今際の案件を問い質してみた。
 これがまたもや古泉絡みであるなら俺も付子を食ったような顔で訊かねばならないところだが、今回はさほど気を揉む必要は無いと俺の経験則が言っている。
 古泉いわく、「僕は全く関与していませんよ。おおかた本当に生徒会絡みの要件なんでしょう」とのことで、少なくとも大事を招くような事態にはならんはずだ。
「これよ」
 言うと同時に、ハルヒは見るからに純白とは程遠い再生紙のプリントを俺に突き出してきた。
 何だ、エコにでも目覚めたのか?
「学校のプリントなんて大体そんな再生紙じゃない。違うわよ。そこにおっきく文字が書いてあるでしょうが」
「部活動報告書、ですか。なるほど」
 長イスに無造作に置かれたプリントを覗き込んで、古泉が代わりにそのゴシック体を読み上げた。
「そうよ。ていうか、ぶっちゃけ前とおんなじようなもんじゃない。他の部長っぽい人間たちも集めといて、やることは前と変わらないとか。もうあのメガネを遠視用レンズに入れ替えてやろうかと思ったわ」
 随分と出費の嵩む嫌がらせだなおい。ダメージの大きさで言えば、やった方もやられた方もお互い似たようなもんだろ。
「何だ、呼ばれたのは長門だけじゃなかったのか」
 なら話は早い。他の部活も同じことを言い渡されたんなら、これは形式的な部分が大きいんだろう。機関紙みたく面倒な事柄に足を突っ込まずとも、適当に取り繕って誤魔化しとけばいい。
「とにかく一学期の部活動の顛末を報告しなきゃなんないってことよ。ま、報告書はどうせキョンが書くんだから別にいいんだけど、その上でひとつ問題が発生するのよね」
 ハルヒは俺の与り知らぬところで割り振られていた事務仕事をサラッと宣言しつつ、
「我がSOS団は、今年度はまだ文芸部としての活動をしていません」
 さも今後予定が組まれているかのような言い回しで、席を立ち皆を見渡すようにして当然のことをのたまった。
「でも、みんな安心していいわ。あたしがさっき何をやるか考えといたから。みくるちゃん、これ」
 脈絡も無く唐突に指名を受けた朝比奈さんは、自らに突き出されたプリントに目線をやり、一瞬プレゼン資料を突き返された営業マンのような顔をしつつもハルヒの意図を理解したようで、
「あ、はい」
 実に愛らしい御手でそのプリントをいそいそとホワイトボードに貼り付ける。
 それを確認するとハルヒは、そんなプレゼンに長けた営業マン真っ青な舌滑で、
「これからみんなに日記を書いてもらうことにしたから!」
 ものの数瞬で顧客企業SOS団メンバーは、そのプレゼン商品を否応なく契約させられることが決定した。もう誰かこいつを中南米の営業所あたりにでも左遷してくれ。
「日記、ですか。それは非常に素敵な提案なのですが、涼宮さんはそれをそのまま文芸部の活動とされるおつもりですか?」
 俺が唖然として言葉を失っている隙に、古泉がその間を縫って提案者に伺いを立てた。
 そりゃもっともな質問だ。そんなもん俺が生徒会長だったとしても立ちどころに却下のハンコだろう。作文なんかよりも随分と程度の低い小学生の宿題みたいなもんだからな。
「ふふん。古泉くんも読みが甘いわね。ただの日記なんて、そんなのほっといてもどっかのヘアメイクアーティストが勝手にやってくれるわ。あたしがやりたいのはね、今日あったことを書くんじゃないの。これからのことを書くのよ」
 もうこの時点で俺の脳髄はうすら寒い嫌な予感を垂れ流し始めている。
 だが、その寒さもこの脳内年中常夏女のハルヒには届かないでようで、それどころかむしろ瀬戸内海の水位を数センチほど上げてしまいそうな暑苦しさを醸し出しつつ、
「で、日記に書いたことを実際に行動するの。言わば未来日記よ!」
 こうして北高文芸部兼SOS団メンバーは、俺の経験則が否定していた気を揉むような事態に発展しかねないイベントを敢行することになった。
 若いうちの苦労を大人買いしろとでも言わんばかりに、まだまだ俺の経験則には苦労が不足気味らしい。どこかで苦労のバーゲンセールでもやってたら教えてくれ。買い込んでやるから。


 そして長針がギリギリ鋭角と言える分くらい進んだ後。
 あの後すぐさま人数分のノートを買いに購買へ奔走したのはもちろん俺で、今は全員にノートが行き渡ったのをハルヒが満足そうに眺めている。
「いい? 未来日記に加えて、普通の日記も付けなきゃダメよ。どの程度の再現だったとか何で再現出来なかったとか、そういうのを後で考察して作文にしてもらうから」
「それを活動内容にするってことか? ちょっと文芸部とは懸け離れてるような気がするんだが。生徒会だってそんな判断に困るようなもん出されても嫌がるだろ」
「解ってないわねキョン。あたしの見立てだと、これは今まで誰もやったことが無いわね。物事の第一人者っていうのは常に厭われるものなのよ。地上が動いてるって言ったコペルニクスの気持ちがあたしには痛いほど解るわ」
 宇宙人未来人超能力者ときて、とうとう往年の偉人にまでその探求心を広げようとしているハルヒ。頼むから、もう過去からタイムスリップして来たりとかは勘弁してくれ。
 そうして俺がミスター・コペルニクスでいいのかコペルニクスさんでいいのか、世界の偉人に対する妥当な呼称を考えあぐねていると、
「じゃあそうね、古泉くんはみくるちゃんの日記を書いてちょうだい」
 部室の偉人召喚士は、何やらとんでもない要求を突き付けた。
「ええっ! ……あのぅ、じじ自分で書くんじゃないんですか?」
 まるで有罪を言い渡された被告人のような絶望を顔に滲ませ、誤審であるのを願うかの如く朝比奈さんは今一度ハルヒに確認を取る。
「そんなの全然面白くないじゃないの。なんならあたしがみくるちゃんのを書いたげてもいいわよ」
 代替案が提出されつつも、そっちの方がよっぽど危険極まりないと感じるのは俺も朝比奈さんも同じようで、朝比奈さんは胸の前にやった両手をパタパタと振りつつ、
「ややっぱり、古泉くんでお願いします……」
「そう? じゃあ、みくるちゃんは有希のを書くのよ。有希は古泉くんのをお願い」
 けっきょく判決は覆らず、それどころか他のメンバーにも勝手に次々と判決を下していく我らが裁判長。
 となると残りは俺だけで、
「で、俺はお前の日記を書けばいいのか?」
「あんたは報告書担当だから書かなくてもいいわ。その代わりあんたの日記はあたしが書いたげる」
「待て待て。じゃあお前の日記はどうすんだよ」
「あんたみたいな雑用係の思い通りに団長であるあたしの行動が縛られるなんておかしいじゃない。仕方無いからあたしのも自分で書くことにしたわ。二人分よ二人分。団長たる者これくらいの仕事量は抱えるべきなのよ」
 なら平団員長門に行動を縛られる副団長古泉のくだりはどう説明するんだよ一体。
「とりあえずこれで大体のことは決まったわね。明日までに明後日の日記を書いて、みんなそれぞれ割り当てた人に渡してちょうだい」
 例の如く誰の返事を待つこともなく、連絡事項の伝達を終えるなりハルヒはドンと扉を鳴らし颯爽と部室を去っていった。


 正直、こないだの機関紙よりも随分と厄介事を孕んだイベントのような気がしてならない。未来の日記なんて、そういった要素に思い当たる節がありすぎる。
 とにかくここは少しでも先回りして懸念材料を減らすようにするべきだろう。
 そこでまずは、だ。本日まだ一度も言葉を発しておらず、インテリア業界騒然の完璧なリアルオブジェと化している文芸部の正式部員に釘を刺しておかねばなるまい。
「長門」
「なに」
 たった今魂が注ぎ込まれたと言われたところでそのまま信じてしまいそうなリアルオブジェの長門は、俺の呼び掛けを受けてようやく口を開いた。
「一応言っておくが、俺みたいに平凡な普通の人間が出来うる範囲の行動を書かないとダメだぞ」
 あのコンピ研とのゲーム対決を見る限りでは、こいつが思う人間の標準は少しばかり上方修正されているようだからな。
「わかった」
 見慣れた微妙な頷きで、長門は俺に理解の意を示した。
 まあ、どうせ長門の日記に従うのは古泉だからな。少しくらいの無茶振りなら俺が許す。熱湯風呂くらい書いといてやれ。
「ふふ。四十三度くらいまでならなんとか対応できそうですが」
 お前が何度の湯に浸かろうが俺は構わんが、お前が朝比奈さんに変な要求を書いた日には、その鬱陶しい前髪をパッツンにした上で写真を取ってそれを密封保存されると思え。
「ひっ」
 そんな俺の忠告を横耳してか、朝比奈さんがチーターの接近を感知したガゼルのようにビクッと反応する。
「はは、大丈夫ですよ。僕もまだまだ表の道を闊歩していたいですからね」
 いい加減見飽きた例のジェスチャーと共に、古泉は心配無用の視線を俺に投げ付けてきた。
 とにかく、そんな不安材料満載の日記帳を俺たちは抱えることになったのだ。
 まあ未来日記にしろ地雷日記にしろ、そろそろ何かある頃だろうとは思っていたさ。無いなら無いでどうせ古泉あたりが作為的なイベントを催すだろうし、どっちにしろ俺の経験則は更に厚くなる羽目になったってことだ。
 ハルヒ発信の艱難は、汝を玉にするどころか真珠にだって成ってしまうのさ。






 そういうわけで、一日のレールが敷かれた日記帳は遺憾ながら無事全員に行き渡り、本日が団長様の宣言から二日後の朝、つまり日記実行日の当日である。
 イベント提案者いわく、「いい? 明日になるまで絶対に日記を見ちゃダメだからね!」との仰せなので、日記は正に今が初見だ。
 守るような義理も無いのに、そんな言い付けを律儀に遵守している自分が恐ろしくなりつつも、やにわにページを捲ってみる。

『 起床と同時に団長にモーニングコール。今日の意気込みを熱く語った。  』

 端から容赦無いスピリチュアルな攻撃が寝起きの頭をクリティカルにつついてきた。
「……マジかよ、おい」
 まさかページを捲るたびに、こんな脱線ギリギリのレールが敷かれてあるんじゃないだろうか。
 まあ、書くのがあのハルヒである限り多少の無茶振りは予想できなくもなかったんだが、どうせ見てないんだから無視すりゃいいと高を括っていた。
 考えやがったな、あいつ。これじゃあ無視を決め込んだ時点でハルヒにバレてしまう。そっちが脱線ギリギリに仕向けてやがるのに、俺が人身事故だとアナウンスすればクレームが入る仕組みかよ。いつか大規模ストライキが起こるぞ。
「仕方ねぇな……」
 ものぐさに携帯を手に取り、ハルヒのアドレスを呼び出す。
『何よ朝早くから。朝の貴重な時間を奪おうっての?』
 なんつう白々しい奴だ。ワンコールで出たあたり、きっと待っていたに違いない。
 とにかく今日の意気込みとやらをこいつに伝えれば任務完了だ。手っ取り早く済ませてやろう。
「あー、アレだ。今日は気合入れていくから覚悟しとけよ」
『……何それ』
「それだけだ。切るぞ」
『ちょ、待ち――』
 ピッ。
 よし、何の意気込みなのかは俺自身も疑問を呈したいところだが、ひとまず第一関門はクリアした。
 続いて日記に目をやる。

『 制服に着替えたが、今日は少し肌寒かったので予備の同じ制服を更に重ね着した。 』

「アホかっ」
 今度はマッドネス精神全開の電波を目の当たりにし、ついにリアクションに困り果て日記をバンと床に叩きつけた。
 なんなんだこれは。日記か? これは日記と言っていいのか? 何が悲しくてこんなファッション性皆無な南極ペンギン顔負けの防寒対策をこの季節になってまでせにゃならんのだ。春の陽射しも渋い顔だろうよ。
 もうどうにでもなれと半ば自棄になりつつ、同じ服を二枚着ながらクラスの連中のつっこみをどう回避しようかと算段を立てていた。
 やがて朝食を取るべく一階へ降りようとしていると、
「あれ? キョンくんそれー、同じの二ま――」
「うるさい」
 傍から見れば当然のつっこみを年下の家族から受けそうになるが、それを間一髪で凌ぎつつ階段を下りる。
 続いて傍から見れば当然のつっこみを今度は年上の家族から受けそうになったのは言うまでも無く、そんなこんなを繰り返してようやく登校である。
 この時点ですでに俺の精神的疲労は二枚重ねどころか雪ダルマ式に着ぶくれする一方であり、当然のように先が思いやられる。きっと帰宅する頃には十二単なんざ歯牙にも掛けないほどの重さを背負っていることだろうよ。
 とにかく、こうして未来日記ごっこはスタートしたのだった。




 そして始業直前である。
 何とか登校を乗り切り、ようやく教室の前まで漕ぎ付けたところで昨日ハルヒが言っていたことをふと思い出した。
「そういえば、始業から放課後までは日記の縛りは無しでいいって言ってたっけ、確か」
 ならこんな暑苦しい格好とは早々におさらばだ。
 さっそく一枚制服を脱ぎ、それを左腕に掛けて右手を扉に添える。
 で、ここで一度俺の出で立ちを確認してみる。
 実際に着用している制服は一枚で、ここまでは何ら問題は無い。だが左腕には着用している制服と同じ物が吊るされているわけで、
「何やってんのよ、そんなとこで。早く入りなさいよ」
 俺の世間体に関わる考察を巡らせている最中にいきなり扉が開いたかと思ったら、その考察に至る原因を作った本人が横からしゃしゃり出たようである。誰のせいで余計な思考に囚われていると思ってるんだ、まったく。
「お前の前代未聞の気まぐれ日記のせいで、こっちは神経をすり減らして色々と考えることがあるんだよ」
 と、不満を漏らしてはみたが、その本人は「ふーん」と言ったきり日記のことには触れてこなかった。
 そしてようやく教室に入ると、そこにもアホ面の伏兵が待ち構えていたようで、
「うっす、キョン。あれ? お前なんで制服――」
「黙れ」
 本日三度目の防御をなんなく成功させ、これがあと何回続くのだろうと溜息を吐いているところで今度は国木田と目が合う。
「おはよう、キョン。ん? どうしたの? その制服」
「…………」
 もうどうとでも解釈してくれ。
 もしかしたら健忘症でも発症して一度着たことを忘れていたのかもしれんし、はたまたマントを二枚持ってきた闘牛士とシンクロさせたのかもしれんし、解釈の幅はどこまでも広がるぞ、国木田。
「ははは。流石にどっちでもないとは思うけどね。まあ……訊かないことにするよ」
 言葉の端々に見える憐れみの気配が心に痛い。
 こうして谷口はともかく、何も訊かないでくれた国木田に心の中で二拝二拍一礼を行っていると、何か訊きたげなクラスメイトが二人ほど寄ってきている。
 さてどう言い逃れしようかと頭の中で言葉のブロックを組み立てていると、
「んあ?」
 と、俺がマヌケな声を漏らしたのは、左腕に掛っていた重みがスッと消えたからだ。
「……ちょっと、借りるわよ」
 どうやら持て余していた制服をハルヒがもぎ取ったようである。
 何だ? 雑巾にするには適していない素材だと思うぞ。
「違うわよ。ちょっとした冷え性対策よ」
 肌年齢の折り返し地点を過ぎたOLみたいな台詞を残し、ハルヒは窓際の自分の席へズカズカと進む。
 冷え性にどう制服を活用するのかと俺が見守っていると、イスに腰を下ろしたハルヒはスカートから覗くちょっとだけ眩しい生足に俺の予備制服をフサっと掛けた。
 いやいや、冷え性ってのは主に足先に来るもんなんじゃないのか。男の俺にはよく解らんが、あまり効果が有りそうには見えないんだが。
 まあいい。ラッキーなことに、こっちに寄ってきていたクラスメイトがいつの間にか引き返しているしな。思わぬ副産物を授けてくれたのは嬉しい誤算だ。
 こうして健忘症疑惑から解放された俺は、効きそうにない冷え性対策を絶賛実施中のハルヒを横目で流しつつ、平和な授業へと入っていった。



 
 束の間の平和を堪能し、とうとう日記にデカイ顔をされる、と思っていた放課後。
 何か用事があるとかでチャイムが鳴るなりロケットスタートで教室を出たハルヒに続いて、俺も悠々と教室を出る。
 一応日記は確認したんだが、その日記も小顔に憧れたのか『放課後を神聖なるSOS団の活動に費やした。』としか書かれておらず、安堵に包まれつつも何か拍子抜けな気分で部室へと歩を進めていた。


 部室にはすでにハルヒ以外のメンバーは揃っており、それぞれが銘々の活動に精を出している。
「どうでした? 涼宮さんの日記は」
 待ってましたと言わんばかりに、パズルの手を止めて古泉が訊いてきた。
 どうでもいいがお前、そのパズルまだ完成してなかったのかよ。
「どうも何も、めちゃくちゃだ。この意味の無い制服を見て解らんか」
「いえいえ、随分と楽しそうではないですか。そろそろ刺激が恋しくなってきた頃だったのではと」
 古泉は意味の無いスマイルで意味の無い二着目の制服を見つつ、無駄な当て推量を俺に押しつけてきた。
「お前は横で見てるだけだからそう感じるだけだ。逆にそういうお前はどうなんだ? ちょっと日記を見せてみろ」
 俺が日記を催促すると、古泉は少し考えたような仕草を見せるが、「ハルヒは別に人に見せるなとは言ってないんだがらいいだろ」という俺の後押しによって、微妙な笑みと共に日記を俺に差し出してきた。
 確か古泉の日記は長門が書いたものだったよな、と頭の中で確認しつつ、日記を開いてみる。

『 起床  朝食  登校  帰宅  夕食  就寝 』

 三秒で閉じた。
 そこにはJISコード顔負けの手書き明朝体で、丸一日の行動が十二文字に集約されていた。こうして物事の簡略化は進んでいくのだろうか。簡略化の弊害に悩まされる中国漢字の行く末がいよいよ他人事では無くなってきた。
「……なんというか、羨ましいなおい」
「ええ。おかげで普段の生活に全く差し支えの無い、良い日常を送らせていただきましたよ」
 だろうよ。
 とりあえずお前が何の苦労も無く、脳の老化を促進するような一日を送ったのは解った。だが、
「朝比奈さん。何か古泉に変なことを書かれたりしませんでしたか?」
 俺が古泉の罪業を炙り出すべく一言を投げ掛けると、どこまでも奥ゆかしい天使長朝比奈さんは茶葉の缶をそっと台に置き、
「あ、はい。大丈夫。ほとんどいつもと変わりませんでした」
 ならいいんです。あなたが如何わしいことをさせられているならば、俺は修羅と化してこの場を真っ赤に染め上げねばならないところでした。
「先日も申し上げた通り、僕もまだまだ表の道に足を着けていたいものですから」
 などと抜かしつつ、残念、とばかりに例のジェスチャーを見せ付けるのが甚だしく苛立たしい。
「長門、お前の日記はどうだった?」
 エセスマイルの話題もそこそこに、最後のメンバー文芸部員に話を振ってみた。
 長門の日記は誰あろう朝比奈さんが記したものである。きっとファンシーな字体で内容も愛しさ溢れるものになっているに違いない。
 いや、待てよ。それに沿って行動するのは長門になるわけか。悪くはないとは思うんだが、いまいち想像が付かん。
 俺がなんとなく、可愛らしい小物に囲まれた宇宙人製アンドロイドの姿を想像していると、
「…………」
 無言でスッと長門が俺に突き出してきたのは、茶葉?
「あ。あたし、そろそろお茶を買ってこなくちゃって思ってて、それをそのまま書いちゃった……。ごめんなさい。そうですよね、長門さんが動かなきゃダメなんでした……」
 これを書いたのがハルヒなら間違い無く故意にやったことなんだろうが、まあ朝比奈さんだからな。
 ていうか、
「待て。日記通りに動くのは今日からだぞ。いつ買ってきたんだこんなもん」
「さっき」
 さっき? 授業が終わってから買ってきたのか?
「そうなんですか? あたしが部室に来た時には、もう長門さん居たのに……」
 なんだか雲行きが怪しくなってきた。
「どこで買ってきたんだよ一体」
「…………」
 いや無言で指を差されても解らんから。
「白豪銀針、ですか。僕はお茶に明るくは無いのでどの程度のものかは判断しかねますが、少なくとも僕は聞いたことの無い種類ですね」
「えええっ! なななんでこんなお茶がこの辺りで買えるんですかぁ」
 もうこれ以上この事に対しては追及の手を緩めないと、なんだか世の中の色々な物が崩れ去りそうな気がしてきた。勇敢な戦場カメラマンだって、踏み込まぬべき前線のボーダーラインは弁えているだろうからな。
 こうして、ますます深まる長門のお茶問題に俺が頭を抱えていると、
「みんなお待たせ!」
 喜び勇んで銃弾飛び交う前線に突っ込んでいきそうな奴が、銃声みたいな扉の音を鳴らして登場した。
「あたしとしたことが迂闊だったわ。今日が終わってから書く普通の日記用のノートを忘れていたなんてね。とりあえず人数分買ってきたから、みんな受け取ってちょうだい」
「んなもん、わざわざ新品を用意せんでも未来用のノートが充分余るんじゃないのか」
「ケチくさいこと言ってんじゃないわよ。そんな高いもんじゃないんだから、一文字一ページくらいの勢いで書いちゃえばいいのよ」
 それはそれで足りなくなるだろうが。おまけに読みづらいことこの上ない。
「じゃ、そういうことだから。今日は帰るわ!」
 どういうことだ、と返す暇も無くハルヒは早々に部室を出て行った。
 なんつうせわしない奴だ。嵐のようにやってきて嵐のように去って行った、という言い回しがこれほど当て嵌まる瞬間もそうそうあるまい。今度は何を企んでやがるんだか。
「しかし涼宮さん、今回は随分とあっさりされてますね。もう少し我々の日記にも関与されると思っていたのですが」
「お前はそうかもしれんが、俺は朝から突拍子もない要求のオンパレードだぞ。こんだけやってりゃ充分だ」
 あいつの気まぐれ日記のおかげで、家族にすら白い目で見られたんだからな。
「まあ、今もすぐに部室を出られたことですし、何か考えていらっしゃるんでしょう」
「どうせ余計なことだろ」
 ハルヒが帰ったとなれば、もうここに留まる必要は無いので俺は帰り仕度に取り掛かる。
 それに触発されたのか他の面々も片付けに入っており、今日は早い帰宅になりそうだ。
「えーと、この後は……病院に行く、んでしたっけ?」
 朝比奈さんは何かを思い出すように、俺にしてみればちょっとした驚愕の事実を口走った。
「え? 朝比奈さん、どこか具合が悪いんですか?」
 俺の朝比奈さんに寄生するなんて、どこの病原菌だまったく。低温殺菌してやるから名乗り出てこい。
「あ、いえ、違うの。確か日記にはそういうふうに」
「おい古泉」
 俺が事の真意を問い質してやろうと呼び掛けると、その本人は少し考えたような間を空け、
「ちょっと待ってください。僕は『病院』とは書いていないはずです」
「んなこと言ったって、現に朝比奈さんはそう言ってるだろうが」
「いえ、まあ確かに、何かひとつくらい普段と違うことを書いておこうと思いまして、商店街に寄る、といった内容のことを記しておいたのですが」
 どういうことだ。朝比奈さんが書き換えたのか? それともどちらかが嘘をついている?
 いや、とにかく考えても仕方ない。現物を確認すれば一発だ。
「朝比奈さん。ちょっと日記を見せてもらえますか?」
「あ、はい」
 よたよたとカバンから日記を取り出し、やたらと不安そうな顔で朝比奈さんは日記を俺に手渡す。
 俺がページを捲りつつ放課後のあたりに差し掛かると、
「病院って書いてあるじゃないか。何が商店街だ」
「ちょっと失礼」
 そう言って古泉が日記を覗き込んでくる。
 すると、いつもの微笑を苦笑いに変化させ、
「確かに書いてありますね。しかも完璧に僕の筆跡で、です。ですが、神に誓って僕は病院とは書いていません。どう証明しましょうか……」
 古泉はそう言いつつ人差し指を顔の前にやり、
「あるいは、何者かが改竄したか、ですね」
 何の理由があって、わざわざ改竄してまで朝比奈さんを病院へ送り込まなきゃならんのだ。
「病院が目的ではなく、商店街へ行かせないことが目的かもしれませんよ」
 とにかく、本当にそうであったとしてだ。こんなことが出来そうな奴は、
「長門、お前がやったのか?」
 こいつなら、なんなくやってのけるだろう。理由は解らんが、長門なら聞けば教えてくれるはずだ。
「違う。わたしも他のインターフェースも、日記の改竄には関与していない」
「……そうか。しかし、改竄されたってのは間違い無いのか?」
 長門はいつもの微妙な角度で頷く。
 それを見届けると、今度は古泉が俺の方に向き直り、
「すみません。ちょっとあなたの日記を見せていただけますか?」
 



「では、お先に失礼します」
「また明日ね、キョンくん」
 兎や角やっているうちに、俺を残して他のメンツが一斉に帰路についた。
 古泉が俺の日記を見て一つの結論に達し、あいつらが先に帰ることになったのだが、その結論に至る原因となった一文をここに紹介しておく。

『 部活が終わり家に帰ろうとしたところで、校門で偶然団長を見かけた。団長は商店街に用事があるそうなので、喜んで荷物持ちを買って出た。 』

 何が喜んで、だ。 
 そろそろあの天気女の妄想癖を是正してやらんと、俺を始め他のメンツはおろか、あいつ自身だって然るべき頭の病院の世話になるかもしれん。日記で朝比奈さんに行かせる前に、お前が病院へ行け。
 そんな五人揃って待合室で順番待ちの図を想像しつつ、俺は校門へと足を進める。
 すると片手に日記を握りしめ、俺が出てくるのを待っていたのか、我らが団長が校門前で立ち呆けていた。
「あれ? キョンじゃない。今から帰んの?」
 ああ、そうだとも。今から坂を下って家路につくところで間違いない。朝のあの電話に磨きをかけた白々しさだが、帰るという認識で合ってるぞ。
「そう。あたし、今から商店街に用事があるのよね。残念だけど今日はここまでね」
 なんだそりゃ。俺と行くんじゃなかったのかよ。
 まったく。
 なんで俺がこんなことを申し出なきゃならんのだ。
「あー、そうか。まあ、もしアレなら、俺が荷物持ちをやっても構わんぞ」
 いかにも気だるそうに俺がその提案を呟くと、ハルヒは今日一番の笑顔を輝かせ、
「そう、悪いわね! じゃあ付いて来なさい!」
 と叫びながら俺の手を引きつつ、ハルヒは位置エネルギーの作用するままに坂を駆け下り出す。
 ハルヒの意外に小さな手に引かれながら、俺は西日の放つ色合いとカチューシャの色が漸近線を描き境界が曖昧になっていく様をボーっと眺めていた。


 それからのハルヒは、何か変な麻酔でも打ったのかと思うほど表情は笑顔で固定され、縦横無尽に俺を連れ回した。
 そのわりには大した買い物もせず、荷物といえば俺が片手で紙袋を握り締めている程度である。
 何がしたかったんだ、一体。
 そんなハルヒの暴れっぷりにとうとう西日も愛想を尽かしたのか、隠れるように山の向こうへと姿を消しつつある、そんな時間帯。
 そろそろ解散かという雰囲気を醸し出しつつ、身長差のわりにはさほど歩幅が変わらない歩みを並んで進めている。
「そろそろ帰るか」
「ん」
 先程までの勢いをどこかに置き忘れてきたのか、ハルヒは日記を握りしめ何やら難しい顔を作っている。
 すでに辺りの明るさは街灯まかせで、ときおり街灯が途切れるのが、まるで難しい顔を俺から隠す手助けをしているようだった。
「なんだ、さっきから黙りこくって」
 難しい顔だけなら普段とそう大差ないのだが、あまりにも喋らないのはちょっとむず痒い。
「あー、もう。ちょっと黙ってなさい」
 黙っていた理由を尋ねたら俺が黙れと言われつつ、ハルヒに握りしめていた日記でポンと叩かれる。
 その拍子に、力が入ってなかったのをアピールするかのように、ハルヒの手から日記が滑り落ちた。
「ったく」
 渋々拾い上げてやると、何気に開かれていたページが俺の視界に入った。
 あー、なんだ。これか。
 これをこいつはウジウジと今まで躊躇ってんのか。
 こんなもん、どこに躊躇う要素があるってんだ。
「ああ、なんだ、これか。こんなもん簡単じゃないか。俺が言えるんだから、団長のお前なら言えるだろ、ハルヒ」
「…………」
 そこだけ書き殴ったかのような乱雑な字でありつつも、はっきりとした2B鉛筆のような太い字でバッチリと書かれていたさ。
 普段言い慣れないことってのは、例え単なる国語の教科書の朗読だとしても気恥ずかしいもんだ。それは解る。
 だが今に限ってはハルヒ、お前が自分で書いたものなんだぞ。それをお前が言えないってんなら、他に誰が言うんだよ。
「まったく。軽く口走ればいいだろうが」
「…………」
 そうすれば俺だって、さらっと流してやるのに。何を意識しているのかこいつは、どうでもいいことで尻込みしやがる。
 だから、観念してそのアヒル口から紡ぎ出せばいい。
 今や肉親以外は誰も口にすることが無くなった、俺の名前くらいさ。



『 私は、隣に並んでる奴の呼び慣れない名前を、ちょっとだけ呼んでみた。 』