「あんた今日、授業が終わったらここに残りなさい。すぐ部室に行ったって、どうせ床のホコリでも数えて遊んでるだけなんでしょ」
 どこに面白さを見出せばいいのか皆目見当も付かない斬新な娯楽の先駆者に俺を仕立て上げつつ、団長殿は俺に居残り令を施行してきた。
 ここ最近の例からすると、その目的は大いに予想できるんだが、
「またか。今度は何なんだ」
 一応訊いてやることにした。
 どうもこいつは言いたがりな性分のようで、先回りで言い当てると後々面倒になることが多い。泳いでないと死ぬマグロなら話は解るが、こいつは喋ってないと死にでもするんだろうか。
 人類から魚類とは、またえらく極端な退化だなおい。
「明日、物理の小テストでしょ。あんた、また忘れてたの? いいかげん記憶力を使うようにしないと、痴呆症が目前に迫ってるわよ」
 この歳で要介護はちとキツいが、小テストは忘れていたわけじゃない。物理の小テストに限っては以前もほとんど成績に響かなかっただけに、特に今回も準備はしていないだけだ。
「その甘さがあんたの成績を低迷させる要因の一つよ。解ってんの? あんたがバカだと、あんたを躾けてるあたしが笑われんの。管理職のマネジメント能力不足は死活問題なのよ」
 ハルヒはここまで一気に捲くし立て、ようやく本来の目的を達すべく次の言葉を放つ。
「あたしが勉強を教えてあげるから、小テストは前回の倍以上の点数を取りなさい!」
 こうして半ば無理矢理、予想通り放課後の個人レッスンが開催されることになった。放課後の個人レッスン。なんだか無駄にエロい響きだが、こいつにそういう方向性を期待するのは完全にお門違いってもんだ。


 そして放課後。校内に一斉にチャイムが響く。
 ハルヒは俺の机の中から的確に必要な物だけを取り出し、相変わらずの握力で俺の手をひっ捉えて教壇へと連れて行く。
 なぜこいつが俺の机の中を把握しているのかはさておき、何をそんなに急ぐ必要があるんだ一体。
「こことここ。あとここの応用問題も理解しておきなさい。あいつ意地が悪いから、授業で触れてない問題を入れてくるはずよ」
 以前、数学の小テストの際に行った個人レッスンを皮切りに、何かに味をしめたのか事あるごとに俺を教壇へと引っ張ってくる。パブロフの犬でもあるまいし、何の条件反射を植え付けようとしているんだこいつは。
「一応、できたぞ」
「見せなさい」
 俺が膜電位をフル加速させて解答欄を埋めた教科書を睨み付け、これまた俺の顔をも睨み付けてくるハルヒ。ペルセウスとかに助けを求めた方がいいのだろうか。
「あんた、全然ダメじゃないの。せめて最初の三問は全問正解じゃないと話にならないわよ」
 半分近くは解けているじゃないか。これで全然ダメだってなら、明日は諦めた方がいいと思うぞ。
「今日は時間が掛かりそうだわ。キョン、家に連絡しときなさい。遅くなるって」
「待て待て、いつまでやる気だまったく。たかが小テストにそこまでする必要は無いだろ」
 あまつさえ成績にも響かないってのに、無駄なパッションを注がんでもいい。そんなに勉学に励んだところで、薪を背負った銅像にされて後世に残されるのがオチだ。恥ずかしいだろ。
「どうせなら大理石の像にして欲しいくらいだわ。こんなボロっちい公立校でも、それくらいの予算は捻り出せるはずよ」
 余計に目立つ方向にしてどうするんだ。
 しかしこいつなら本当に作らせかねないところが怖い。迂闊な発言は控えるべきだ。
「そんなことはどうでもいいのよ。でも、本当に時間が掛かりそうだわ……。ちょっと十分くらい休憩入れましょ」
 けっきょく余すところなく理解させるつもりのようで、あえなく俺の帰宅時間はブラック企業と肩を並べることが決定した。さらば夕方の再放送ドラマ。
「とりあえずジュースよジュース。キョン、二分で買ってきなさい」
 仕事を終えたサラリーマンがビールを求めるかのように、ハルヒは俺を自販機へ向かわせようとせっつく。
 いや、まあ買いに行くのは毎度のことだから、今更やぶさかではないんだが。
「……そういえば自販機の場所が面倒なところに移ったんだった」
 思わず言葉にして俺が不満を漏らすと、ハルヒはいぶかしげな顔を作って俺を見やる。
「文句言ってる間にも休憩時間の終わりは迫ってんのよ。いいから、ちゃっちゃと買ってくる!」
 俺の鼻先まで指を伸ばし、再度俺を促してくるハルヒ。
 こうなると俺が教室を出るまで喚き続けるだろうからな。フラワーロックの逆バージョンだ。これで特許でも取ってひと儲け出来るんなら、いくらでも喚いてもらって構わんのだが。
 とにかく俺が動かない限り状況は悪化の道を辿る一方なので、早速教室を出ることにする。
「あそこの階段、急なんだよな……。まあ、早いとこ買ってくるから待ってろ」
 何の修行か知らんが、自販機前のあの階段は何とかならんのか。長いし急だわ、むしろあそこまで運んで取り付けた業者の人を銅像にして後世に伝えてやってもいいんじゃないだろうか。
 そうして俺が作業服を着た銅像に妄想を膨らませつつ、教室の扉に手を掛けたところで、
「……ちょっと待ちなさい、キョン」
 先程まで俺をせっついていた張本人が、今度は俺を引き止めた。
「やっぱり、あたしが行くわ」
「……え?」
「だから、あたしが買いに行くって言ってんの。あんたはここで待ってなさい」
 なんだなんだ? どういう風の吹き回しだ? 今だかつてこういう展開は一度も無かったんだが。
 朝比奈さん(大)。もしかしたらあなたの未来とは別の分岐を辿ってしまったのかもしれません。
「どうしたんだ急に。俺が買いに行くのはいつものことだろ。別に構わんぞ」
「どうせ体力に乏しいあんたのことだから、階段でへばって時間を無駄にするだけよ。よろよろの体で転ばれても面倒だし」
 それなら普段からお前が買いに行った方が時間を無駄にすることは無いと思うんだが。
 そもそも階段っつっても……。
 階段。
 ああ、そうか。そういうことか。まったく、こいつは。
 常日頃、俺に無理難題を吹っ掛けてくるクセに、こういうところで気を使いやがるから調子が狂う。
「安心しろ。もう階段から落ちたりなんてことはしないさ。あんなこと、そうそうあってたまるもんか。だからお前は、いつも通りここで待ってりゃいい」
 俺はこいつに巣食っている不要な心配が取り除かれるよう緩やかに諭してやる。
「…………」
 納得したのかしていないのか、ハルヒは無言で何ともつかぬ表情をしてくれた。
 とにかく俺は自分で買い出しに向かうため、再び扉に手を掛ける。
 でだ。
「…………」
 俺のすぐ後ろにまたもや三点リーダの気配を感じるのは、春の知らせか何かだろうか。
 ここで振り返ってもいいのだが、そうするまでも無く正体は解り切っている。というか、今教室には俺以外に一人しか居ないんだが。
「いや、だからお前は待ってろって。別に付いて来なくても大丈夫だ」
「は? なに勘違いしてんの? 催したからトイレに行こうとしてるだけよ。いいから早く行きなさい。あたしはこっちだから」
 ハルヒはそう捲し立て、大きな靴音と共に俺とは逆方向に走り出す。
 いや、トイレなら俺と同じ方向の方が間違い無く近いだろ。だいたい一年以上も付き合いがあるんだから、お前が何をしようとしているのか、こんな時くらいは解るってもんさ。
 素直になれとは言わんが、あそこまで片意地を貫かんでもいいだろうに。
「早いとこ買って帰るか」
 俺は階段に先回りしているハルヒを想像して、不覚にも頬を緩ませてしまうのだった。