そして、早くも一ヶ月後。
 俺たちの生活もようやく軌道に乗り始め、とはいっても相変わらずエンゲル係数は内閣の支持率より高い値をキープしているわけだが、取り急ぎ死活問題に発展しそうなほどでもなかった。
 まあ、それでも充分すぎるくらい俺たちの経済状況は芳しくなく、それでも端からのニ週間に比べれば間違いなくマシである。あれはもう泥水を啜るような生活だったと言っても過言ではない。
 その間、精神的にプレハブ小屋の隅あたりにまで追い込まれたにも拘らず、どうにかそれを乗り切ることができたのは、ひとえにこのお方が傍に居てくれたおかげに他ならない。
「キョンくんキョンくん、起きて。起きないと間に合わないですよ」
 あーもう、うるさい。いいからお前はシャミセンの縄張り争いにでもセコンドで付いてろ。そのうち負けそうだったらタオルでも投げてやれ。
「ふえぇ。あのぉ……」
 なんだ? タオルならタンスの二段目に入ってるぞ。
「起きないと仕事に……」
 仕事? おいおい、いつのまに高校生からリーマンへ飛び級というか飛び職というか、ビフォーアフターも甚だし過ぎるだろ。
 ん? そういえばお前、なんか声にプラス方向の補正が掛かっているように感じるんだが。
「もう、キョンくん! 起きないとダメっ!」
「ったくもう! だからシャミセ……朝比奈さんっ! すすすみません!!」
 いよいよ俺も頭にヤキが回り始めたのか、あろうことかエンジェルを我が妹と錯覚したらしい。
 もうこれは死刑どころか、終身刑で寿命ギリギリまで懲役させられた後に、けっきょく処刑されてもいいくらいの重罪である。
 ここんとこ色々と張り詰めていたせいで、一気に身体にツケが回ったのだろうか。久々の寝坊だ。
「はい。早く着替えないと」
 そう言って服を手渡してくれるのは非常にありがたいんですが、
「あの、朝比奈さん」
「なんですか?」
「今から着替えるんですけど……」
「ひゃいっ。ごめんなさいっ」
 もともと高い声をさらに裏返らせつつ、朝比奈さんは二秒で厚手の布で仕切られている向こう側へ退散した。
 なんだか以前にも同じようなやりとりを交わした気もするが、あの時は立場が逆だったっけ。
 とにかく俺は超特急で着替えを済ませ、ニ、三歩で辿り着く狭い玄関へと直行する。宣言通り三歩で到着するや否や足を靴に突っ込み、
「いってらっしゃい、キョンくん」
 至福の瞬間である。
 もうこれを聞きたいが為に仕事に行くようなもんであり、金は二の次三の次で充分、早い話が要するに朝比奈さん最高というわけである。
 そんな最高なお方と寝食を共にしているにも拘らず、煩悩の暴走を今だ抑え続けている自分に、瑞宝小綬章を半分に割ったもんくらいは送ってやりたい。
 いやスマン、朝比奈さんは最高だが今の俺たちにとってはお金も最高だ。お金最高。人前で口にするには、あまりにも人間を疑われる危険性が付き纏う台詞だな。自重しよう。
「いってきます」
 新婚生活気分もそこそこに、ようやく普段通りの一日がスタートする。
 昼間の仕事に加え、夜にも働かざるを得なかった先ごろまでを考えると、ずいぶん心に余裕を持てるようになった。色の無かった空も、今の俺にはとびきり青く写る。
 心持ち早歩きで常勤させてもらえることになった仕事場へ足を進めつつ、あたふたと家事をこなす朝比奈さんの雄姿を想像して、俺は自然と頬を緩ませていた。
 気付くと頭の中のフラワーガーデンは、一種類の解語の花で埋め尽くされ始めていた。






 それから僅かな日が過ぎた頃。
 うちわで扇ぐ朝比奈さんの薄着姿が芭蕉扇ばりの破壊力を生み出したのか、夏はどこかへ吹き飛ばされたようで、ようやく涼しげな秋風が火照った体を冷やし始めた。
 それに伴い、今は朝比奈さんもスーパーで購入した無地の長袖に身を包んでおり、それには少しばかり秋の到来を悔やまされる。山あり谷ありとまではいかないが、丘あり溝ありくらいの浮き沈みグラフだ。
「もう少し待っててね」
 脱いだ俺の作業服と入れ替えに、朝比奈さんは簡単な着替えを俺に差し出し、部屋の中に仕切りもなく取り付けられてあるキッチンへと向かう。急いでいる様子がこれまた良いし、なんだか嬉しい。
 そしてまもなく、これがテーブルなんだとしたら本来のテーブルはオブジェとかアートにカテゴライズされそうな、そんな簡易な木の台に質素な夕食が配膳される。
「いただきます」
「いただきまぁす」
 とまあ大体こんな感じで毎日の晩飯時を過ごしているというわけだ。うむ、今日も料亭の味。普段のドジっぷりは新手のドッキリなんじゃないかと思えるほど、相変わらず料理の腕は三ツ星級だ。
 こうして舌鼓を打って食事を進めていると、ふと作業着のポケットに入れっぱなしだった二枚の紙切れの存在を思い出した。
「あ、そうだ。朝比奈さんって、野球とか興味あります?」
 あの夏の野球大会を思い出す分には、朝比奈さんが興味を示したような素振りはこれっぽっちもなかったとは思うけどな。とりあえず訊いてみた。
「ひえっ。やや野球ですか?」
 朝比奈さんもあの野球大会が脳裏を掠めたのか、まるで猟師に銃口を突きつけられた野ウサギのようになっていらっしゃる。やっぱあのノックがトラウマになってるんだろうか。
「いや、プレイする側じゃなくて、今度は観戦する側なんですけど」
 と、俺が不安を取り除く言葉を掛けると、朝比奈さんは胸を撫で下ろし、
「……あ、そうですか。それなら大丈夫です。でも、あんまり見たことないなあ」
「俺もそんなに好きってわけじゃないんですけど、仕事場の人にチケットを貰ったんですよ。せっかくですし、見に行きませんか?」
 最近、忙しくてまともに出掛けることなんて無かったしな。ついでに言えばお金も無かったし。
「……じゃあ、そうですね。たまには。行きましょう。うふ」




 そして翌日。暦は平日だが俺は仕事が休みなのでセルフホリデイである。
 むしろ休みだからこそチケットを譲り受けたんだが、まあとにかく、そういうわけで俺たちは地元球団のホームである球場へいざ赴かんとしているわけだ。
 蔦が妙に艶めかしさを醸し出している外観を横目にゲートをくぐると、さすがに人気球団なだけあって球場内は人で溢れかえっている。
 はぐれる心配があるので、不可抗力で手を握れるのは予想外の収穫だ。
 バイオリンの弓毛のように繊細な手を引きながら、俺は野次や歓声のあいだを縫うように進む。ふと後ろを振り向くと、場内の熱気のためか、はたまた別の熱気によるものなのか赤らめた愛らしい笑顔があるのが、またいい。
 しばらく調子良く進んでいると、
「わひゃっ。すすすみませんっ」
 甲高い謝罪の声と同時に、俺は繋いでいる手に急に引っ張られる形で立ち止まることになった。
 どうやら朝比奈さんがすれ違いざまに誰かとぶつかったらしく、ペコペコと頭を下げている。
「大丈夫ですか? ちゃんと前を見てないと、危ないですよ」
 俺がいったん足を止めてそう言うと、朝比奈さんは一歩分の距離を詰め、絡めていた二人の指をほどいて両手で俺の腕の掴んできた。通りゃんせだった二人の距離が、コーヒーをろ過できそうなほどの隙間へと狭まる。
「これなら、大丈夫ですよねっ」
 そう俺に言い聞かせる朝比奈さんの手は先程よりも熱を帯び、それが袖越しにも伝わってくる。
 このお方は、これを小悪魔的なカリキュラムに沿って行っているわけではなく、純粋にただ大丈夫だという理由でやっているのだからタチが悪い。自分だけが意識しすぎて、これじゃ俺がピエロだ。
「早いとこ席に着いちゃいましょう」
 やられっぱなしでなんだか悔しいので、俺は普通を装って黙々と指定の席へと向かうことにした。
「えーと、お、ここだ」
 やがて外野席の一角に、チケットに記されてある番号と一致する座席を発見する。二人して並んで腰を下ろし、ようやく観戦タイムだ。
「ふえぇ。なんだか、すごく盛り上がってるなぁ」
 すでにプレイボールのサイレンは鳴らされており、どうやら地元球団がリードしているようで異様な盛り上がりである。テレビで聞いたことのありそうな応援歌とメガホンを叩く音が、やかましく鼓膜を揺さぶる。
 仮にもにわかファンとも言い難い俺と朝比奈さんは、飛ばされっぱなしのジェット風船と共に置いてけぼりを食らわされた感じで、顔を見合わせて苦笑い。
 とにかくリンくらいなら発火してしまいそうなほどの熱気であり、まさかその為に禁煙にしているのではないかと思わせるほどだ。
 そんな徳用マッチ箱と化したライトスタンドをぐるりと見渡しつつ、俺は日本一の熱狂的ファンと言われるその所以を実感していた。
「思っていたより、色んな感じの人が来てるんですねえ。ちょっとびっくり」
「はは。結構こんなもんだと思いますよ。要するに、日本人は野球好きってことです」
 多くはないが、若い女性同士のグループもあれば、カップルと見受けられる男女も居る。俺と朝比奈さんの前席を陣取っているのは家族連れだしな。確かに色々な人種の巣窟だ。
「ねえ」
 前のその家族連れの女の子が、父親らしき人物に何か訊きたげに呼び掛けている。
「すごく人がたくさん居るわね」
「そうだな」
 その父親は慈しむような視線を我が子に送りつつ、頷いている。微笑ましい光景だ。朝比奈さんもやんわりと頬を緩めてそれを眺めている。
「ここには、どれだけの人が集まってんの?」
 うむ、実に子供らしい純朴な質問だ。その純粋な心をいつまでも忘れず、ぜひとも真っ直ぐな人間に育って欲しいもんだ。間違ってもどこぞの爆弾娘のように捻くれることのないようにだな……。
 ……なんだろな、これ。このデジャブともつかない記憶の深海から溢れんばかりの忌々しい感覚。
 いや、待て。少女の今の質問。これは間違いなくどこかで聞いた覚えがある。
 確か……いや、まさかな。ありえん。いくら少女が黒髪のロングヘアだからって、
「うーん、そうだな、確か……」
 と父親は一瞬考えたあと、あろうことか首を後ろに捻って俺の方に視線を送り、
「兄ちゃん。ここ満員で何人くらいだっけ?」
 度肝を抜かれた。
 待て待て待て。なんなんだこれは。なんのドッキリだ一体。
 だが、まあ焦るほどのもんじゃない。普通に答えてやれば何も問題はないはずだ。
「そ、そうですね。確か……ご五万人くらいかとぅお」
 トゥオ。
 いったい俺はどこの母国語を喋っているのだろうか。今まで気付かなかったが、どうやら俺はバイリンガルという我が家系切っての地位に就けるかもしれない肩書きを獲得していたらしい。
 生まれはL.A、育ちはニューヨーク。悪そうな奴はだいたい友達ということにでもしておこう。
「おーそうだそうだ。ありがとな兄ちゃん。おいハルヒ、満員だから五万人くらいだな」
 ……なんてこった。
 よもやこんな些細なエピソードにも俺が一枚噛んでいようとは。
 まさかとは思うが、あのトンデモ娘はこれをさせるが為にわざわざ断層とやらに風穴を開けたんじゃあるまいな。
「ええっ! まさか……涼み、んご」
 ようやく事態を理解したらしい朝比奈さんの容易ならない発言を遮るべく、俺は傷ものCDの音飛び並に一足飛びで近づき、とっさに朝比奈さんの口を塞ぐ。
 すると朝比奈さんは自らの失言に気付いたようで、何やらアイコンタクトらしき視線を俺に送ってきた。
 俺が口を塞いでいる手を引っ込めると、
「あのぅ、これって……偶然なのかな」
 と、小声で俺に囁いてきた。
 そうか。朝比奈さんはハルヒの野球場エピソードのことを知らないのだ。
 言われてみりゃそうだな。今俺たちが万里の波濤を凌ぎつつ生計を立てているこの時代は、本来なら観測は不可能であり、ましてや実際に身を置くことなど叶わないはずだからな。
「どうなんでしょうね。俺には解らないことですよ」


 しばらく俺と朝比奈さんは、白と黒という一見縁起の悪そうな縦縞の押せ押せムードに流されつつ適当に応援に励んでいたが、正直試合の内容なんざ全く頭に入ってこなかった。
 しかしそんな俺の上辺の応援に関わらずとも勝手に試合は進行し、やがて勝手に九回表を迎えることとなる。
 ここらでもう観戦は充分だろう。お世辞にも広いとは言えない出入り口で人だかりに揉まれないよう、早いとこ脱出しないと後々面倒だからな。
 ただ単に人だかりは疲れるってのもあるが、何しろ圧倒的に男が大半を占めるこの満員御礼の中で、朝比奈さんが揉みくちゃにされる可能性がある。そうなると俺自ら場外乱闘に発展させてしまいかねん。
「朝比奈さん、そろそろ出ましょうか」
「そ、そうですね。楽しかった……なぁ」
 そう言ってくれるのは非常に感激なんですが、やはり朝比奈さんはこのムードに気後れしてしまっていたようで、台詞の中に疲労感が滲み出ているのが伝わってくる。
 うーん、せっかくここへ来てから初めてのデートっぽいイベントだってのに、デートコースの選択を見誤ったかもしれん。
「今度は、どこか朝比奈さんが行きたいところに行きましょう」
 銀傘にはね返ってこだまする歓声を背中に受けつつ、俺はさりげに次回のデート予告をしておく。
「そうですねぇ。でも……」
 朝比奈さんはそう言ってからいったん言葉を区切り、
「余裕があれば、ね」
 まるで無茶言う弟を言い宥めるかのように、しこたま柔軟材が配合されてそうな物腰で俺の顔を覗き込むように言う。
 きっと金銭的に、ということだろう。
 初めてお目に掛かる朝比奈さんのお姉さん的な一面に、やっぱ上級生なんだなと今更なことを実感しつつも、俺と並んで家路につく横顔はどう見ても幼かった。
「帰ってご飯作らなきゃ」
「朝比奈さん、今日くらいはいいですよ。時間も時間ですし、どこかで簡単に夕食を済ませて帰りましょう」
 なにも仕事をしているのは俺だけではない。ここのところは朝比奈さんも家事の合間を縫って内職に勤しんでいるのだ。
 だから俺が休みの日には家事をちょくちょく手伝っているんだが、普段はきっと蟻というより二宮尊徳くらい休んでないんじゃないかと心配でならない。このお方が折り紙付きの努力家だってことをなまじ知ってるが故に余計だ。
「ダメです。外食なんて三日分の食費にはなるんだから」
「いや、でも朝比奈さん。たまには休んでくれないと俺が心配です」
「キョンくんに比べたら、わたしなんて全然。だから、ダメ。作ります」
 ほんと、こういう時だけ主張が強いんだからな、このお方は。
 結局情けなくも言い返せなかった俺は、この頑固なエンジェルを満足させるような折衷案を足りない頭で練っていると、
「ん? どうしたんですか?」
 朝比奈さんの足が止まり、何かあらぬ方向に熱い視線が注がれていた。
 俺がその視線を辿ると、なんてことのない、ちょっとした可愛らしい雑貨屋に目を奪われているらしい。
 朝比奈さんは、俺の視線が自分のそれを辿っていることに気付くと、
「……あ、はは早く帰らないと」
 いたずら好きの妖精が人間に見つかったかのように、なんでもないよ的なニュアンスを含んだ台詞を残して再び足を進め始めた。
「ちょっと寄りましょうか」
 そんな可愛い妖精のいたずらを目の当たりにして、やすやすと放っておけるほど甲斐性がないわけじゃないぜ俺も。
「え? でもぉ……あ、ちょっと、え? わっ」
「ほらほら、入りましょう」
 すごすごとその場を離れようとする狭い肩を両手で以って軌道修正し、俺もろとも雑貨店内に押し込む。
 全く抵抗を見せないあたり、やっぱり入りたくてしょうがなかったんだこの人は。まあ、そこが庇護欲をくすぐるというか、俺的に直球で言うと可愛いってことだけどな。


「わぁ、たくさん」
 店内は、アンティークな置物から子供受けも良さそうな可愛らしい小物まで、たいして広くもない敷地に幅広い品揃えである。おかげで人が通れるスペースが狭い。
 店内に入るや否や、原石だったダイヤモンドの朝比奈さんの目が、ブリリアントカットを施して一層輝きを放つ瞳になり、夢中で品定めにいそしんでいらっしゃる。
 うん、入って正解だったな。こんな朝飯前のお茶漬けくらいのことで小躍りする朝比奈さんを拝見できるってんなら、何杯だっておかわり無料でいい。
 それからしばらく俺も適当に商品を物色しつつ、朝飯前のお茶漬けというかお茶漬け自体が朝飯でいいじゃないかと日本の諺にイチャモンを付けていると、
「これって、なんなのかなぁ?」
 店内狭しと動き回っていた朝比奈さんが、一つの木製人形の前で立ち止まり、何か疑問符を浮かべている。
 俺はその声に呼び寄せられるように朝比奈さんに並び、その人形を手に取って見る。
「なんだか怖い顔して不気味なんだけど、でも可愛い感じもして、ちょっと不思議なお人形さん……」
 険しい表情でどこかヨーロッパあたりの国の軍人のような出で立ちをしたその人形は、確かに見る者を少し物怖じさせるような、それでいて憎めない雰囲気を備えている。
「はは。これは、くるみ割り人形ですね」
 俺が疑問に答えると、朝比奈さんは58面体ブリリアントカットの瞳を今度は丸く変化させ、
「ふえっ。このお人形さんがくるみを割っちゃうんですか?」
 信じられないといった様子で、舐め回すように人形を凝視している。
「本来はそうなんですけどね。俺もそう詳しいわけじゃないんですが、最近のやつは完全にインテリア仕様で、実際にくるみを割ることはできないと思いますよ」
「そうなんだぁ。へぇー」
 朝比奈さんは俺の適当な解説にしきりに頷き、どうやらこの木製軍人に興味津々のようである。買ってあげるか?
「そ、そろそろ帰りましょう。キョンくん」
 俺が財布の紐の封印を解くべく呪文を唱えていると、朝比奈さんは呪文を遮るかのように言葉の呪符を俺の財布に貼り付け、そそくさと店から逃げるように出て行く。
 それに釣られて俺も店を後にするが、これじゃあ俺が財布から何か復活させてはいけないものを復活させようとしていたみたいで、なんだか癪だ。
「今日は何作ろうかなぁ」
 なんて、朝比奈さんは先程の軍人様にえらく心を魅かれていたのが、まるで嘘のように振る舞っている。
 そんな健気な姿を見ちまったからには、仕方ないだろ、やっぱ。
「すみません朝比奈さん。ちょっとトイレに行ってきたいんですけど」
「あ、はい。じゃあここで待ってますね」
 朝比奈さんは剥き出しのコンクリートに背をもたれ掛け、にこやかに俺を見送る。よく解らんが無機質なコンクリートも朝比奈さんの背中で綺麗にリフォーム出来そうな勢いだ。
 俺はそんな朝比奈さんを置いてダッシュするが、もちろん行き先はトイレではない。さっきの雑貨屋、あのくるみ割り人形をなけなしの懐を叩いて購入すべく駆け足をしている。
 再び俺が店内に入ると、そこの店主は俺が忘れ物をしたとでも勘違いしたのかキョロキョロと床を見渡していたが、俺がくるみ割り人形を手に取ると、目的を理解したようでレジへと入った。
 もともと薄い財布が、ギガザインの内容くらいさらに薄くなるのを見届けると、俺はすぐさま店を出て朝比奈さんのもとへ戻るべく再び小走り。
「おまたせしました」
「はい。おかえ……ええっ!」
 俺が抱えていた小箱の中身を理解したのか、朝比奈さんは寝起きドッキリを仕掛けられたアイドルの如く勢いで驚いてくれる。例のプラカードでも用意すべきだっただろうか。
 とりあえず蓋に手を掛けてご開帳すると、
「……かか買っちゃったんですかぁ」
 朝比奈さんは、困惑と歓喜のリキュールを菜箸なんぞでステアリングしてしまったかのような、どことなく微妙な表情をしていらっしゃる。
 俺はその表情を歓喜一色に染め上げるべく、
「朝比奈さん。これ、貰ってやってください。それと、この人形代は小遣いの前倒しということで。なので今月の小遣いは要りません」
 それでこの人形代以上に浮くってんなら、何か朝比奈さんの好きなように使えばいい。コーヒーへと変換されてむさ苦しい俺の喉を通るくらいなら、フローラルの香りとか漂ってそうな朝比奈さん愛用財布に仕舞われていた方が、よほどマシだろうしな。
 英世、いや、漱石だって、その方がお金冥利に尽きるってもんさ。
「ええっ! そんな、そんなのダメですよ! 仕事中の飲み物とか」
「水とか飲めるからいいですよ」
「でも、その他にも」
「いいんです」
「でもぉ……」
「とにかくいいんです。貰ってくれますよね?」
 頷いていいものなのか悩みあぐねているようで、朝比奈さんはせわしなく地面と俺の顔のあいだで視線を何往復もさせている。その際、一定のテンポでこちらを見ることになるわけだが、そん時の表情がやたらと切ないのがもうなんというか。
 まったく、仕方ねえな。
 見兼ねた俺は、その濁りに染まぬ蓮のような手をそっと取り、箱を持たせて差し上げた。
 そして、
「あと、今日の晩飯は俺が作りますから。今日はいっそ朝比奈デーってことで、朝比奈さんはゆっくりしていてください。ちなみにもう決めたことなんで、これは覆りませんからね」
 といった具合に、とっさにアドリブで付け加えたのはいいものの、いささかカッコつけ過ぎたな。
 俺はなんだか妙に背中がむず痒くなり、それを取り繕うかのように、星座を探すみたいに上空に視線を彷徨わせる。
 やっぱりキャラじゃないな俺は。これじゃあ、似合わぬ僧の腕立てどころかウェイトトレーニングだ。
「…………」
 そら見たことか。寒中見舞いを送るにはまだまだ程遠く、やっと西瓜が隅の陳列棚に追いやられ始めたくらいだってのに、朝比奈さんが冬季先取りで固まっていらっしゃるではないか。
 アレか。ここは一つ何か斬新なボケでも入れて、止まった空気を戻しておくべきか?
「キョンくん……」
 はい、なんでしょう。俺の笑いのレベルでは、おそらく哀れみを含んだ苦笑くらいしか生み出さないと思いますが、それでも構わないならもう少し待ってやってください。
 俺は吉本興業の門を叩く必要があるかもしれないと一瞬考えたが、そうではなかった。
「……キョンくん」
 今にも零れ落ちそうな涙で目を潤わせて、朝比奈さんはそっと俺に寄り掛かり、胸に顔を埋めてきた。
 待て待て、一体どうしたというんだ。俺のギャグにお耳を汚すのがそんなに嫌なのか?
 予想の範疇を超えた事態に、一瞬何が起こったのかと、脳神経の膜電位の変化が速度を上げて処理を促す。だが所詮、俺なんて谷口あたりと大差のない低脳持ちだ。
 俺が答えを弾き出す前に、朝比奈さんの口からそれが漏れた。
「ありがとう……ありがとう、キョンくん……」
 シャツが涙で滲んでいくと共に、小動物を抱いた時のような心地良い体温が俺の身体にも滲んでいく。
 俺は自然と朝比奈さんの小さな背中、それと頭に、ハイウェイのカーブよりも緩やかに手を伸ばす。
 それを待っていたかのように朝比奈さんは、
「ずっと、大切にします。未来に持って帰るの、許してもらえるといいなぁ」
 しめやかに俺の胸から頭を離し、だが背中に触れている俺の手はさながら、朝比奈さんは俺の顔を見上げる形で呟く。
 正直、この距離感はマズい。俺が僅か頭を下げれば、すぐにも星空の下でのラブシーンになりうる程度の隔たりである。
 このまま放っておくと湧き溢れる煩悩を抑え切る自信がないので、俺は「抑」という字を使って表せそうな俺の中のあらゆる物を総動員して、俺の中の巨大な何かに立ち向かう。そこに変身ヒーローの登場はない。ウルトラマンではなくウルトラQ的な抑止活動。
「……あー、もう夜になると、あれですね。割と肌寒い季節になってきましたね」
「うふ、そうですね」
 至近距離で涙目の朝比奈さんに微笑まれるという、核攻撃以外の何物でもないその仕草に、俺の「抑」隊員たちは苦戦を強いられる。
 いよいよ陥落まであと僅かかと思われたが、どうやら強めの秋風が一瞬味方に付いてくれたようで、
「ひえっ」
 朝比奈さんは突風によろめかされ、それによって俺との距離がひらく。おかげで隊員たちも矛先を向ける対象が消え、一斉に出撃から帰還を果たすが、それはそれでなんだかちょっと惜しい気もする。
 そんな俺の心中を汲んでくれたのか、朝比奈さんはよろめく際に俺の手を掴んで転倒を防ぐ。それによって、どこぞの路線を見習ったのか俺朝比奈間のダイヤも縮まったようで、二人の距離は再び電車とホームの間ほどへと。
 拭いた涙で水気を伴った手の感触のやばさに、俺が黄色い線の内側へ避難していると、
「ご、ごめんなさい。あたし、ほんとにドジ」
 とどめと言わんばかりに、例のジェスチャーが炸裂する。つまりアレだ。朝比奈さんの見慣れた、頭をコツンとやる仕草である。それがまたこの期に及んで俺の頬を緩ませ、口が両端から釣られて引っ張られる魚みたくなる。
 俺はもう被弾を気に掛けず強行突破を決め込もうと、
「朝比奈さん」
「なんですか?」
 俺はもう片方の手もそっと掴み、
「あと九ヶ月、楽しく過ごせたらいいですね」
 ありったけの笑顔で反撃してやった。
 すると朝比奈さんの表情は、俺のそれなど歯牙にも掛けないほど輝かしい、みるみる満面の笑顔へと変化と遂げ、

「はいっ」

 瞳は正にブリリアントカットを超える最先端の114面体カット。腰が砕けたね。
 その計算され尽くした屈折率が織り成す輝きに呼応するように、俺は自然と強く握る。
 水仕事で荒れた、ささくれ立った小さな手を。








 その日を境に、確実に何かが変化の兆しを見せ始めた。変化といっても、季節の移り変わりのように定期的なものではなく、また微小変化群ネフローゼだとか変化という単語が組み込まれた病に陥ったわけでもない。
 詳細に渡って語るにはちと困難な変化だが、二人の雰囲気というかなんというか、どことなく抽象的にしか説明しようのないものだ。
 だが一つだけ言っておくと、悪い変化ということだけは絶対にない。


 そしてそれからは、休日には必ずと言っていいほど二人で出掛けるようになった。
 とはいっても、散歩がてらに公園のベンチで、近所のガキに見守られつつ朝比奈さん特製弁当を頬張るとか、僅かな生活必需品の買出しついでに、冷やかし以外の何物でもない長時間ウィンドウショッピングとか、その程度のものである。
 要するに予算ゼロのお出掛けプランだと、それくらいの行動パターンに制限されるわけだ。
 だが普通の貧乏デートってわけじゃないぜ。こちとら傍を固めているのは、誰あろう時間を超越した天使朝比奈さんである。どんなに高価なランチに舌鼓を打ったところで、すれ違う男どもから向けられる羨望の眼差しはプライスレス。これには勝てるまい。
 まあこっちは粉骨砕身の働きで衣食住にしがみ付いてんだから、蛍雪の功というか、使っている鍬は光るってことで、要するに苦労してんだから許せ世間の男衆ってとこだ。
 もちろんそれは俺だけの苦労ではなく、朝比奈さんの弛まぬ努力あってこそのものなのは何度でも述べておこう。
 さらに二ヵ月後に至っては、
「あ、すごい。今月、食費が一万円切っちゃった」
 もうベテラン主婦も顔負けどころか顔を見る前に負けそうな勢いである。スーパーの特売コーナーが近所の主婦たちでごった返していたところで、朝比奈さんがお出ましになると人だかりがモーゼのように割れるんじゃなかろうか。
 もしかしたら俺の体にも、いつの間にかダビデの星が刻まれていたりするのかもしれん。
 とにかくそういった具合に、お互いが進歩し合って生活基盤を確固たるものへと昇華させていった。


 そして当分のあいだは特に大きな出来事もなく、割と単調な生活パターンだった。
 だがそれでも、俺は気付けばそれを充実した毎日だと思うようになっていたし、実際、充実していたんだと思う。要所要所で朝比奈さんが微笑ましいドジっぷりを発揮してくれたりと、ハルヒとは別の意味で一緒に居て飽きることがなかったしな。
 そんなある日。
 そのドジっぷりを窺わせるあるエピソードが引き金となり、俺はようやく気付かされることになった。


「あ、あれ? 鍵、鍵がぁ……」
 休日。そして寒波が、北斎も描かずにはいられないほどの文字通り波となって押し寄せてきそうな季節である。
 長らくこの町内に閉じこもっていた足をいつもより少しばかり伸ばして、編み笠を売りに行く勢いで隣町まで行ってきたその帰りだ。
 朝比奈さんのこの言動で察する通り、どうやら家の鍵が見当たらないらしい。
「……え? ちょっと、マジですか朝比奈さん」
 俺の焦りを他所に、ゴソゴソとバッグを漁り続ける朝比奈さん。
「暗くてよくバッグの中が……」
 普通なら自転車置き場というものは、電灯とか光を供給するものが設置されていて当然なんだろうが、いかんせんここは超オンボロアパートの備え付け物である。見事に真っ暗で、離れた街灯からおこぼれを受けている程度の明度なのが憎たらしい。
「ちょっと待ってください」
 俺はその場にしゃがみ込み、今スタンドを立てたばかりの譲り物の自転車に手を伸ばす。スタンドを支点に片手で後輪を浮かせ、もう片方の手でペダルを回してライトを点ける。
「わぁ、ありがとう。これならよく見えます」
 ミラーボールみたくライトの光を乱反射させるビニール製のバッグが、間接的に朝比奈さんの顔に薄いスポットを浴びせる。ぼんやりと照らされて艶やかに写るその顔に、俺はつい見とれてしまう。
 そうして俺の視線に気付くこともなく、再び朝比奈さんはゴソゴソと探し続けたのだが、けっきょく鍵は見つけられず終いだった。
 だが夜も遅く、大家さんに鍵を借りに行くのは少しためらわれる。それでもなぜか、俺は全く焦っちゃいなかったし、むしろ楽しんでいたのかもしれない。
「朝比奈さん。行きませんか久々に? あのベンチ」
 緩やかなペダルの回転数をゼロにまで下げ、明度の調節権を再び月夜に預けた上で、俺はしっかりと朝比奈さんを見据えて言う。
 今の俺と朝比奈さんのスタート地点とも言える、数ヶ月前に二人で朝を迎えたあの公園。俺は再びそこで朝を迎えようと思い立った。
「ええっ。またあそこで寝るんですか?」
 半歩ぶん後退りして、朝比奈さんは少しだけ驚きを見せる。
「どうせ家に入れないのなら、どうかな、と思ったんですけど。いや、朝比奈さんの気が進まないのならやめときましょう」
「ううん、行く。行きましょう。なんだかとっても久し振りだし」
 早いもんであれからもう半年だからな。そろそろ近所付き合いも控えておいた方が歴史に優しいかもしれん。
 めでたく意見が一致したところで、俺と朝比奈さんは公園へと足を進め始める。そういえば夜に揃って出歩くのも久し振りだ。普段は二人で出掛けたとしても、外食反対派の朝比奈さんの主張により夕方には帰ってたしな。
 すっかり慣れた女の子の遅い歩調に合わせつつ、俺はこの数ヶ月で撮り溜められた追憶のフィルムを回して脳裏にそれを映し出していた。 
 コンビニ袋の擦れるビニールの音が響く、あの公園での夜。奔走した仕事探しと住居探し。野球観戦。そのあとに買ったくるみ割り人形。主役とヒロインによる二人きりでの数々のシーンは、安っぽいながらも温かいものばかり。
 そしてそのフィルムが巻き切られる頃には、俺はもう気付いていた。
 それは仕方のないことで、ベタな例えだが人という字のように支え合って生きていく二人にしてみれば、必然だったのかもしれない。
 十ヶ月後を目指して進んでいたのが、今や十ヶ月を惜しむように過ごしている。正確に刻む電波時計の数字が、今の俺にはひどく残酷に写る。
 気付いたのはそんな感情。ちょっと考えてみれば、すぐに解ることだった。
 今まで朝比奈さんに抱いていた、まるでお気に入りのアイドルを愛でる憧れのような、そんな感覚。それがずっと二人で居ることによって、さらに深い感情へと進化していく。
 これもまた安っぽい、ありふれたラブストーリーだ。
 だがどんなに安っぽくたって、それが今の俺の有るがままであり、気持ちの全てだった。
 冬の乾燥した空気が、荒れてザラついた小さな手に追い討ちをかけるように攻め立てている。
 そう、早く誰かがその手を守ってやるべきなんだ。
 



 公園に辿り着くまでの僅かな時間、俺は熱暴走しそうなほど頭を高速回転させて考えた。それこそ本当に、風邪ではなく何かエンジン的な理屈で発熱しそうなほど脳を酷使したかもしれない。
 何に掛けても守ってやりたい、その小さな手。
 けど、解ってる。朝比奈さんはこの時代で生を受けた俺とは違う。いずれ未来に帰ってしまうし、それに俺が付いて行くこともかなわない。
 あらかじめ引き裂かれることが台本に記されてある、そんな悲しいラブストーリー。
 それに、そもそも朝比奈さんが俺なんかにそういう感情を抱いているとは到底思えないしな。俺の気持ちを伝えたところで、すべからずして撃沈ってわけだ。
 伝えるべきか、このまま自分の胸に仕舞っておくべきか。
 けど、やっぱりこのままじゃ俺の季節は冬から先に進まない。
 一年で一番綺麗なこの季節の夜景は、なぞりにくかった薄い輪郭をその光でくっきりと映し出す。


 しばらく夜の散歩を満喫したところで、一度深呼吸をしてこの先に待つ大仕事に備える。
 気休めにしかならない程度の備えだが、低い気温がその深呼吸を白く色付かせて目に見える形にしてくれるおかげで、とりあえず少しだけでも何かやったって気分にさせてくれる。
 そんな舌の上ではなく夜空の上で溶けるわた飴を流れ作業の如く量産しているうちに、いつの間にか公園へと辿り着いていた。
 そして、そんな夜空まであの日と似たような雲加減の下、俺は心を決めて口を開く。
「朝比奈さん。俺、この半年間朝比奈さんと過ごせて本当に良かったです。色々と支えてくれて、ありがとうございました」
 そこいらのドラマあたりなら、何よ急に改まって、とか言われるまさにそれである。
 まずは前置きとしてのお礼。俺みたいな蛙の心臓持ちまでもが、いきなりアイラブユーなんて言えるほど人間の基本性能は高くない。アイドリングで温めておかないと、告白本番でトップギアに入れられないことになっちまう。
 なんとも回りくどくて面倒だが、まあこれくらいが年相応のピュアさ加減でいいと思うぜ。別の角度で捉えると、ヘタレって言えないこともないけどな。
「……え、どどどうしちゃったのキョンくん。いや、そんな、あたしの方こそごめんなさい。ううん、ありがとう。こんなにとんでもないことになっちゃったのに、ずっと助けてくれて……」
 ワンクッション置いたつもりだったのだが、そのクッションですら朝比奈さんには刺激が強かったようで、あたふたと俺の言葉に答える。
「いやいや、そんな。俺の方こそ……」
「ええっ。いえ、あたしこそ……」
 これこそいわゆるニッポンジンである。このまま名刺交換でもすれば様になるのかもしれんが、あいにく俺は名刺など持ち合わせちゃいないし、たとえ持っていたところで本当に交換するような場面ではない。
 愛の告白などというものには縁遠い俺に力添えしてくれるせっかくの状況だってのに、むざむざこの機会を逃すわけにはいかないからな。
 朝比奈さんは次の言葉を慌てて探しているのか、目をキョロつかせながら口を開き掛けてはまた閉じてを繰り返し出す。
 おかげで数秒ほどの沈黙が二人の間を通り過ぎ、その沈黙が名刺交換ムードをリセットしてくれた。
 よし、今だ。今しかないだろ。今言わなけりゃ、また雰囲気が明々後日くらいの方向に逸れちまう。
 でも焦っちゃ駄目だ。SOS団で一年近く、それに加えて二人で半年も一緒に過ごしてきたんだ。変に格好つけなくたって、きっと俺なりの言葉でいい。
 焦らず、ゆっくりとだ。
「朝比奈さん。お、俺、この半年で大きく変わったものが、いや、気持ちがあるんです」
 だが、どれだけ落ち着こうと足掻いたところで、所詮は俺なんて恋愛経験ゼロのヒヨっ子。朝比奈さんの肩に手を置こうとしたものの、震えてなんとも無様な仕草になってしまった。
「……あ、あの。キョ、キョンくん?」
 そんな挙動不審な仕草のせいで、俺の只ならぬ気配を感じ取ってしまったのか、朝比奈さんは僅かに後退る。
 くそ、しくった。今から優しさ百パーセントの気持ちを伝えようってのに、逆に怖がらせてどうすんだ。
 だが、今更ここで怯むわけにはいかん。
「俺、あなたのことが……」
 無意識のうちに、朝比奈さんの肩に添えた自分の手に力が入ってしまう。
 冷静に、冷静にだ。力を抜いて、言葉の続きを紡げ。
「あなたのことが、す……」
 生まれてこのかた背負ったことのないほどの大仕事をとうとう成し遂げようと、最後の一文字を口にするその直前だった。
「ほぇっ! まま待ってキョンくん! その、その続きは言っちゃ……ダメ。ダメです……」
 冬の寒さで硬いつららと化した一雫の言葉が、その最後の一文字を切り離した。
 先程のニッポンジンムードをリセットしてくれた沈黙が、掌をかえしたように今度は歯切れの悪いムードを連れてUターンして戻ってくる。
「……朝比奈さん」
 そのムードに耐えかねたのか、時間の確認を言い抜けにするかのように、朝比奈さんは一瞬手首に巻かれたデジタル数字に目を落とし、そのまま俯き顔を俺に見せ続けた。
 やっぱりか。どうせこんなこったろうと思ったさ。
 そりゃ迷惑だよな。好きでもない男に好きだなんて言われて、しかも、いつかは別れなきゃならないことを解ってる奴にだ。何考えてんだって思うだろうよ。
 あーやっぱ言わなきゃよかったのかもな。
 愛はエゴだなんていうのを時折耳にすることがあるが、今の俺がまさにそれじゃないか。朝比奈さんを困惑させる可能性が高いことを解っていながら、俺は自分の気持ちを満たす為に爆弾発言に至ったんだからな。
 どうすんだよこれから。気マズイったらありゃしねえ。
 せめて朝比奈さんが俺に少しでも恋心とか恋愛感情というものを抱いてくれていれば、幼馴染くらいのレベルの関係で微妙な距離感を保ちつつやっていけたのかもしれんが。
「キョンくん……。あたし、あたしは、いずれ未来に……だから……」
 ええ、承知の上です。そして、清水寺の舞台にハシゴを掛けて降りていくくらいの覚悟ならあります。
「だから、あたしはこの時代では……」
 全部解っているつもりです。それでも俺は、
「ダメ……。いえ、ううん。でも、でも、あたしだって……」
 朝比奈さんの下瞼で受け止めている透き通った水分が、抑えていたであろう感情と共に今にも氾濫を起こしそうになっている。それを見て、俺は言い切れなかった二文字の言葉を最後まで言わずにはいられなくなった。
 虹の輪郭を形取ったかのような丸っこい肩に再びそっと手を添えると、寒さのせいなのか別の感情がそうさせたのか、朝比奈さんは唇の端を細かく震わせて、
「……キョンくん」
 呼ばれ慣れた二人称が、至近距離にいる俺でさえ聞き取りづらいほどの僅かな空気の振動量で、俺の鼓膜を揺らした。
 それを合図にするように、俺はとうとう、
「朝比奈さん。俺、あなたが好きで……す」
「え?」
 聞き返された。ていうか、語尾がやたらと細々とした声になってしまった。
 この期に及んでなんて情けない告白してんだ俺は。やっぱり、どこぞのレトルトご飯じゃないんだから、思い立ったら二分で口伝てなんていうお手軽告白でうまくいくわけがない。ご飯ってのは時間を掛けて噛み砕かないと、甘くはならないからな。
 まあどっちにしろ、最初言い掛けた時に俺が何を言わんとしていたのか、朝比奈さんはそれを理解した上で断る前振りのような台詞を口にしていたからな。どうせ振られるのは確定だ。
 いや、断る前振りというか、はっきりと、ダメ、って言ったっけ。んで、それに続いて、「でも、あたしだって」とかなんとか……。
 ……でも?
 でも、っていうのは要するに、しかし、って意味だよな。それは次にくる言葉が、前の言葉と相反する場合に用いられるわけであって……、
「キョンくん……どうして、どうして……」
 朝比奈さんの瞼のダムは余程の上流地点に設置されていたようで、清流のように澄み切った涙を放流させながら、俺の胸に両手を添えて寄り掛かってきた。
「……どうして、許されないの? あたし、あたしだってこんなに、ずっとキョンくんのこと……」
 俺のこと?
 ポジティブな方向で脳の回路を働かせれば、なんだかすごく幸せな答えが朝比奈さんの口から漏れそうな気配だ。
 ……いや、いかんいかん。せっかく振られる準備は万端だってのに、変に期待すると後で精神的にマズいことになる。
 割り込んできた期待心で高揚していく自分を、咎めるように落ち着かせていると、
「あ、朝比奈さん!」
 俺の胸に当てられていた緩い力がすっと消えたかと思うと、朝比奈さんは振り向きざまに走り出した。
「待ってください!」
 反射的に俺はそのあとを追う。
 正直、このまま樹海とか崖とか良からぬスポットへと身を投じそうな空気に一瞬焦ったが、流石にそれは大丈夫だとすぐに思い直した。
 とにかく寒い中、何か別の汗を掻きそうになりつつ鬼ごっこ開始かと思われたのだが、そこはやっぱり朝比奈さんである。ある意味、韋駄天様も衝撃を隠せない斬新なスプリンターっぷりに、気付けば俺はすでに追い付いていた。
 振られている細い腕を掴み、包むように緩やかにこちらを向かせる。
「……ううっ」
 流す涙の規定量オーバーのせいか、何も言えずに固まっている朝比奈さんに助け舟を出そうと、俺は掛ける言葉を探す。
「……大丈夫ですか?」
 こんなことしか言えない自分がつくづく嫌になってくる。なんだよ、大丈夫ですか、って。通りすがりの親切心じゃないんだから、もっと何かあるだろ。
 夜中のコンビニ店員くらい気の効かない台詞に、俺は自分のボキャブラリーの無さを呪いそうになっていると、
「……はい、大丈夫です。キョンくん、わたしも言わせて」
 やっぱり、この人は強い。表向きの強がりではなく、どんなことがあろうとも決してめげる事の無い、芯の通った強さがある。それがあの大きな朝比奈さんへと繋がることを俺は知っているし、尊敬せずにはいられない。
 再確認した。普段の愛らしい姿もその強さも全部込みで、俺は朝比奈さんのことが好きなんだ。
 そしていつか、そう遠からぬ未来に、時間の流れがきっと二人を別つ。
 それでも、俺はやっぱりこの人と居たい。
 だから、
「すみません。先にもう一度、はっきりと言わせてください」
 丸い肩に添える手も、今度はてんで震えることもない。
「俺は朝比奈さんのことが好きです。だから、いつか別れなきゃならないその時が来るまで……いや、そんなもん俺が来させやしません。だから、ずっと俺の傍にいてください」
 パーフェクト。赤ペンなんてこれっぽっちも入る余地はない。俺の持つ能力を超えているみたいで、何か悪いリバウンドが返ってくるんじゃないだろうかと思うほどの出来。
「わたしも、もう自分の気持ちに嘘はつけません。だから……あの、うん、ずっと………」
 唇を噛みながら少しづつ言葉を紡いでいくその小さな姿は、必死に涙を堪えていることを俺に伝えてくる。
「……ずっと」
「朝比奈さん、ここは感情を抑えなくたっていいんですよ」
 最後まで聞く代わりに、俺は両手でその華奢な背中を抱きしめた。
 それが引き金になったようで、堪えていた分の涙が一気に朝比奈さんの頬を伝っていく。
「落ち着いたら言ってください。それまでずっとこうしてますから」
 幾度となく目にした、見慣れた朝比奈さんの泣き顔。だがそれは、満天の星空に紛れて誰にも気付かれることのない流れ星のように、今の俺には儚く写る。
 そんな瞬く間の命で終わる流れ星の代わりに、俺は目の前にある細い涙の筋をその軌道に見立てて、願いを唱えた。
 ずっと、この人と一緒に居られますように、と。





                          次へ