その翌日。
 春休みという名目上の下、俺は昼過ぎまでのうのうと夢心地を堪能してやろうと計画していたのだが、これまた 現実というのはそう都合良くいくものではなく、俺のビューティフルホリデイは儚くも夢に散ることとなった。
 おかげで俺は、普段さながらの生活リズムを春休み初日で崩すことなく、現在、眠気と共に自転車を長門の部屋 へと向かわせている。


 そんな俺の怠惰生活計画に待ったを掛けることになったのは、昨日の夕方のことだ。
 ハルヒの専属荷物持ちをいよいよ両腕がもげるかという思いで終え、なんとか我が家へと生還を果たした直後の 一本の電話だった。発信者もまた、涼宮ハルヒ。
『忘れたわ』
 何をだ。
『あたしとしたことが、タイムカプセルに大事な物を入れるのを忘れてたわ』
 だからそれは何だ。
『機関紙よ。こないだ、文芸部として作った機関紙を入れようと思ってたのよ。いいと思わない、キョン? 何か いかにも、って感じで』
 どう、いかにもなのかはわからんが。
「まあ、悪くないんじゃないか? 昔を懐かしむには、いい素材だと思うぞ」
 これといって反論する理由もないので、俺はハルヒに賛同してやった。
『でしょ? 数少ない、文章として残るSOS団の活動記録だからね! これはどう考えても入れるべきだわ!』
 これまた、何をどう考えてなのかもよくわからんが。
 何だろう、このあとに続くハルヒの台詞は、俺にとって面倒な内容であるという確固たる自信が湧いてくる。
 まあ、大体想像は付くが。
『でも、あたしは明日からここにはいないのよ』
 それはさっき聞いた。
『そして、埋めてある場所は有希しか知らないのよね』
 そりゃお前の一存でそうなったんだろうが。
『でも、有希一人で行かせるのもなんだし』
 それは俺も思う。
『だ・か・ら、あんたが有希と二人……いや、古泉くんも連れて行きなさい! 古泉くんも! 三人よ! この際、もう 埋めてある場所をあんたたちが知るのは許してあげる! 機関紙をタイムカプセルに入れてきなさい!』
 と、忌々しくもほぼ予想と寸分たがわぬ結果となった訳である。
『ちなみに、携帯の電波も届かない程のど田舎だから、文句は直接言いに来た場合のみ受け付けるから!』
 やれやれ、まあ未来に一つ楽しみが増えるのもそうそう悪くはない。と、自分に言い聞かせつつ、俺はこのあと ハルヒご指名の人物に宛て、二度受話器を上げた。そうだな、鶴屋さんにも断りを入れておいた方がいいだろう。
 いやに饒舌な受信相手と、いやに無口な受信相手という全く対極を成す通話をさっさと済ませ、俺は晩飯に ありつこうとしたのだが。
 ここでまた、携帯のバイブレータが作動し始めた。
 今度は誰だ。いやに可愛げな発信者なら大いに許すところだが。

 『着信 朝比奈みくる』

 許す。大いに許す。
 先程の電話に比べ数倍のテンションを保ちつつ、俺は再び通話ボタンに指を掛ける。
『あのぅ、明日、またタイムカプセルのところに行くんですよね?』
 携帯の音質の粗悪さですら、なんと美しいお声。お電話ありがとうございます。
「あ、はい、そうです。誰に聞いたんですか?」
『いえ、誰っていうか、未来からの指令で……あの、わたしも付いて行けって……』
 どういうことだ。
 少なからず朝比奈さんが必要になるような事態といえば、未来的な何かだと考えるのが自然だ。
 まあ、俺の心のスキマは常に朝比奈さんを必要としているのは純然たる当然なのだが、今はそういうことじゃ ない。
 未来的な、何か時間絡みのイベントが待ち受けているのだろう。俺にとっては良くない、というオマケ付きの。
「何があるとか、具体的なことは……聞いてないですよね?」
 今までの経験上、十中八九朝比奈さんは知らされていないだろうが。
『ふぇ、ごめんなさい、教えてもらえなかったです……。あ、でも、あれをやれって言われたから……でも、あれを やるっていうことは……そんな状況がある訳で……』
 徐々に声がデクレッシェンドしていき、最終的には一人で呟いているようだ。
「いえいえ、そんな、謝らないでください。意地悪で言ったわけじゃないですから。俺は朝比奈さんが一緒って だけで十分嬉しいです」
 そして、心は日本晴れです。
『あ、ありがとう……。でも、あたしにそんなこと言っちゃ、ダメですっ。キョンくんっ』
 ぷくっと頬を膨らませている朝比奈さんの顔が脳裏に浮かぶ。
「ははっ。一体どうしたんです?」
『もうっ……あたしを困らせないで下さい……』
 誰だ、一体。朝比奈さんを困らせるなんて、ふてえ野郎だ。
 俺は犯人が自分であることを現実逃避しつつ、逸れた話を元に戻すことにした。
「まあ、とりあえず、明日十一時に長門の部屋に集合ですから」
『あ、なな長門さんの部屋にですかぁ。あの……マンションの前にしてもらっていいですか?』
 まだ朝比奈さんは苦手分野を克服できていないようだ。
 いい加減、もう慣れてきてもよさそうなんだが……。どうにも、女同士というのは難儀なもんだ。
「わかりました。じゃ、十一時にマンション前ってことで」
『……ごめんなさい。我が侭言っちゃって』
 いえいえ、この程度で我が侭になるんだってんなら、ハルヒなんて戦前の天皇陛下ばりの独裁者ですよ。
 用件を一通り伝え終えたので、俺は「じゃまた明日に」と言って電話を切った。

 
 とまあ、昨日の夕方に大体こんな感じのやりとりがあったって訳だ。
 つまり、ハルヒを除くSOS団団員による鶴屋山登山再び、ということである。
 だが、単なる登山で終われそうにないことを、朝比奈さんとの電話が否が応にも予感させる。そんな予感なんぞ 的中しないよう、俺はひたすら祈るばかりだ。
 だが祈ろうにも、釈迦やキリストやアラーといった各宗教の崇拝対象者たちは、無宗教の俺に対しては手厳しい もので、無残にも俺の祈りは受け入れられることはなかった。

 教会にでも通っておくべきだったと、このあと後悔させられることになる。
 

 長門のマンション前に到着すると、古泉はすでに、俺より長めの髪を悠々と風に遊ばせながら立っていた。様に なっているのが何故か腹が立つ。
「やあ、おはようございます。絶好の登山日和といったところでしょうか」
 古泉は無意味な笑みを俺に向け、手を挙げる。
「なんだ、朝比奈さんはまだか」
「おやおや、なんだか先日も部室で全く同じ台詞を聞いたように思いますが。やはり僕一人では役不足でしょう か。まあ特に、今日は肝心な人物がここには来ないというのが大きいようですけど」
 その肝心な人物ってのは誰のことを言ってるんだ。
 まったく、朝っぱらからものの見事に不愉快な気分にさせやがる。ただでさえ眠いというからに。
「もう一年近く経ちます。そろそろ自分に正直になるには十分な頃合いかと……」
 お前と比べりゃ間違いなく正直者なのは、まごうことなき事実だろうよ。
「いやはや、実に手厳しいお言葉です」
 とまあ、トイレットペーパーを三角に折るほどの意味もなさない会話で時間を潰していると、ようやく朝比奈 さんがトタトタとこちらへ向かって小走りしているのが見える。
「すいませーん。遅れちゃいましたぁ……」
 朝比奈さんは、ピンクのカーディガンに、インナーは白のカットソー、そのカットソーのVネックからベージュの シャツを覗かせていて、その色に合わせたのかスカートもベージュという、とても春を感じさせる出で立ちをして いらっしゃる。
 それに比べ、一方俺はといえば、縄文人でも着ていそうなダサダサ縄文シャツに、カーキの縄文パンツ、足元は 縄文スニーカーときたもんだ。
 山登りに行くにも服装に気を使うところは、さすが女の子といったところだな。
「では、行きましょうか」
 俺たちは、古泉を先頭にマンションに入っていく。
 だが、ここからは何だか俺の役目のような気がしてやまないので、前に出て慣れた手つきで長門の部屋をコール する。
『…………』
 いつもの応答。
「……俺だ。古泉も朝比奈さんも居る」
『入って』
 エレベーターに乗り込み、すかさず七階のボタンを押す。
 そして、毎度お馴染みとなった長門の部屋に通された俺たちは、コタツテーブルを囲んで座り、当の長門はお茶を 淹れにキッチンへと姿を消している。
 数分後、急須と人数分の湯呑みをお盆に乗せた長門が姿を現し、各々へお茶を配り終えると、コタツテーブルの 空いた残りの一席に無駄な動きなく腰を下ろした。
「古泉、機関紙は持ってきたか?」
 そう、これを忘れたとなると、今日集まった意味は皆無に等しい。それに伴い、俺の怠惰生活計画も無意味に 壊されたことになる。それだけは勘弁してくれ。
「ええ、もちろん。朝、学校に寄ってきたところですから」
 それはご苦労なこった。
「じゃあ、お茶をご馳走になったら、早速用事を済ませに行くか」
「ええ、それで構いません」
「……あ、はい」

 雑談をお茶請けにし、俺たちはしばらくほのぼのとした雰囲気を楽しんでいた。
 メンツはいつもと変わらないのだが、部室と長門の部屋とでは、またちょっと違う雰囲気になるのが興味深い。
 だが、そんな朗らかな雰囲気を古泉の一言が変えた。
「しかし、今長門さんを人気のない場所に連れて行くのは得策ではないですね。機関の情報によると、どうやら 最近、相手側に何らかの動きがあるようですので」
 そうだった。こんな重大なことを俺は忘れてかけていた。
 俺の脳が小動物並だという事実が、今決定された。そういえばこないだ、ハルヒに蟹にされたような気がしない でもないが。
「長門、なんとか俺たちに埋めてある場所の記憶を植え付けられないか?」
「不可能ではない。でも、それはわたしが情報操作能力を使用することになる」
「……そうか。じゃあ駄目だな」
 長門が消えちまうのは金輪際御免だ。長門に限らず、もう誰かが居なくなるなんてことは俺の小指を賭けてでも 避けたい。やくざは嫌だからな。
 あの世界でハルヒの存在を見失った時に味わった、立っている事が困難なほどの喪失感、吐き気。あれだけは 何があろうと二度と味わいたくない。
「……ふぇ」
 さっきから朝比奈さんが俺と長門のことを、まるでデパートで迷子になった子供が従業員に助けを乞うように キョロキョロと見ている。そういえば、朝比奈さんにはまだ言ってなかった。
「朝比奈さん、ええとですね……」
 長門の今の状態、そして再びあの未来人に会ったこと、それらを俺は、古泉の所々に挟まれる解説と共に掻い 摘んで説明した。
「……そ、そうだったんですかぁ。でも、長門さん……長門さんが、そんなのって……ひど過ぎますぅ」
 ああ、まったくもってひど過ぎる話だ。
 いかん、また腹が立ってきた。何やら最近、カルシウム不足的な事態なのかもしれん。
 俺は明日から毎日欠かさず牛乳を摂取することを心に誓っていると、
「なな長門さんっ。安心して下さい。わたし……がががんばりますからっ!」
 そんな朝比奈さんの決意たる叫びを脳に響かせ、俺たちは勇ましくも目的地へ向かうこととなった。
 玄関に向かっている途中、長門が、
「わたしの感知能力も、ここ最近は正確に作動しないことが多々ある。当てにしないで」
 と、不安要素たっぷりの一言を呟いてくれたのが気に掛かる。
 長門、ほんとに普通の女子高生になっちまったな。だが、それでいい。お前は今まで十二分に働いたんだからな。
 今度は、俺たちが働き蟻のごとく走り回ってやるさ。


「おおうっ。元気だったかいキミたちっ! 春休み初日からご苦労なこっさねっ。しっかしみくるっ、今日も めっちゃめちゃ可愛いじゃないかっ。お姉さんどうにかなっちゃいそうだっ!」
 とかく俺たちは、山の所有者である鶴屋さんに一言挨拶をする為、一路鶴屋邸へ足を伸ばした。
 鶴屋さんから、ありがたい超ハイテンションボイスを頂き、脳裏でBGMとして流しつつ、一路タイムカプセルの 下へと登山を開始した。
「おそらく、機関の者がどこからか付いて来てくれているはずです。ですが正直、大したフォローは出来かねる かと思います。注意しながら行きましょう」
 こんな古泉の言葉を聞いて、森さんと新川さんの顔を思い出していた。
 しかし、どうしても最初に脳裏に浮かぶのが、朝比奈さん誘拐事件の時、森さんが敵に見せたあの凍り付くような 微笑みだ。森さんが見た目どおり俺たちとほぼ同年代だとすれば、たった十数年の間に数多の修羅場を潜り抜けて きたに違いない。それだけ凄まじい表情だった。
 いや、まったく、そんな修羅場に身を投じている森さんなんて、俺が持つイメージに全くそぐわないね。

「……やっと半分といったところか」
 俺的には割と歩いたように感じたものの、周囲に注意して気を張っている為か、思ったほど進み具合は良くない。
これが牛歩戦術ってやつなんだろ、きっと。
 パンツのポケットからマイ縄文電話を取り出し、時刻のみをチラッと見る。さほど時間も経っていない。
「あなたは、どうやら気を張りすぎのようですね。もう少し、気楽にしてもいいかと」
 古泉はそのあと、「最近、これに嵌ってるんですよ」とボトルガムを勧めてきたものの、俺は何も口に入れる気が 起こらず、
「いや、俺はいい」
 とっとと目的を済ませるべく、足早にあの石の場所を目指すことにした。
「人間の気配がある。気をつけて」
 何やら長門が妙な物を感知しているらしい。
 朝比奈さんはその言葉にビクッと反応し、こわごわといった感じで周囲を見渡している。
「長門さん、それは機関の者以外の人間でしょうか?」
「……わからない。今は感知能力が正常に作動していない様子。そこまでの特定は不可能」
「……そうですか。機関の者だといいのですが……」
 まるで自分の状態を他人事のように淡々と答える長門に対し、古泉は顎に手をやり唸っている。
「だだ大丈夫ですよね……キョ」
 
 その時。

 山側の側面。その上の方から、何やらこちらへ向かってくる物音がし始めた。かなり大きい。
 皆一斉にその方向を見上げる。
「ひええぇぇぇぇ!」
 それを見た朝比奈さんが叫ぶ。隣のホールに注意を促すキャディさんも真っ青だ。
 などと言っている場合ではない。そんな状況が迫っている。
「全速力で急ぎましょう! なんとか間に合うかもしれません!」
 木やら石やらがかなりの横範囲で側面の上から転がり落ちてくる。中には身の丈の半分ほどもあろうかという 岩も混在している。
 まるでハリウッド級SFアクション映画のような光景。制作費に何十億費やしたかなんてことは今はどうでも いい。
「朝比奈さん! 早く!」
 腰を抜かしそうに足をガクガクさせている朝比奈さんの手を取る。そして走る。全速力。 
 ったく。何だってんだ、これは!
「おい、古泉! 下った方が早かったんじゃないのか!」
「……ええ、そのようですね。どうやら僕も動揺していたようです」
 だが、今さら引き返すとなると、事態は輪を掛けて悪い方向に向かうのは明らかだ。仕方なしに登ることに全力を 尽くす。
 俺は全力で走りながらもチラッと山側の上の方に目をやった。人影が視界に入る。
 一瞬だが、その人影の顔を認識することができた。
 
 ――あの野郎!

 あいつらの仕業か! なんてわかりやすい攻撃をしやがる!
 こんなのなら、いっそ手の込んだ小難しいことでもしやがれってんだ!

 見えたのは一人じゃなかった。居るのはあの野郎だけじゃない。
 そりゃそうだ。これだけの範囲で一斉に木やら岩やらをわんさか転がさにゃならんというのに、一人というのは あの野郎が宇宙人でもない限りありえない。あの野郎の属性は未来人だったはずだ。
 しかし、なんというか、もっと精神的な攻撃で来るかと思っていたんだが。
 単純な上、大胆すぎるだろこれは。
「キョンくん! まま間に合わないかもぉ!」
「間に合います!」
 とは言ったものの、このままでは間に合わないのは必至だ。
 くそっ! どうすりゃいい!?
 必死で逃げおおせるSOS団一行。
 俺と朝比奈さんより少し先を逃げる古泉長門組でさえ、逃げ切るのは困難に見える。
「……残念ですが、もう……」
「いらんことを言うな! 古泉!」
 認めたくはないが、もうそこまで迫っている。まともにそれに目を向けるのはぞっとする。
 古泉が諦めの言葉を吐いたその時。
 ――長門!
 あろうことか長門が立ち止まり、襲ってくる物体に向けて手をかざした。
 能力が放たれる直前。
「駄目だ長門! やめろ!」
 俺は長門に追いつき、長門の手と制すと同時に、開きかけた口を掌で塞いだ。
「今の状況では最悪の事態になる」
 確かにお前の言うとおりだ。けどな、今長門が力を使えば、百パーセント長門だけは助からない。俺はどんなに 低い確率であろうと、全員が助かる方向に動きたいんだ。
 だが皮肉にも、長門の消滅の回避に費やした時間が致命的だったんだろう。
 気付いた時には、もう全くと言っていいほど逃げ切れる状態ではなかった。

 例によって久々の台詞が口を出る。
 マジでくたばる五秒前。
 情けなくも、こんなくだらないことを口走る余裕があるほどに、俺はもう諦め切っていたのかもしれん。
 
 だが、俺が完全に諦めかけたその時。

「そ、そうだ……あの指令ってこの時のこと……。み、みなさぁん! あああたしに掴まってくださぁぁい!」
 何だか解らんが理由を問いただす時間など今の俺たちにあるはずがなく、藁にもすがる思いで朝比奈さんに手を 伸ばす。めくるめく官能の世界へといざなってくれるのだろうか。
 古泉、長門、俺の順に全員が朝比奈さんの手を掴む。木や岩はもうあと数メートルのところまで迫っている。
「いい行きまぁす!」
 何処へだ。やっぱり官能の世界か?
 何だか諦めて開き直ったからなのか、今さら冷静に頭が回ってきているようだ。
 だが冷静になったからといって、頭に浮かぶのがこんなアホっぽいことでは何の意味もなさない、と悟りを開いた 直後。
 
 目が回る。
 足が地に着かない無重力的な感覚、上も下も認識することができず気持ち悪くて酔いそうな浮遊感がウネウネと 体中を回る。吐き気を催してきた。
 って、ちょっと待て。この感覚にはすさまじく覚えがある。
 そう、時間遡行だ。
 こんな非常事態に、いつの何処へ連れて行くつもりなんだ朝比奈さんは。
「なんだ?」
 気付くとすでに足が地に着いていた。何かこれまでに経験した時間遡行に比べ、遡行開始から終了までに費やす 時間が大幅に少ない気がするのだが。
 それはともかくだ。
 今いる場所はといえば、さっきとなんら変わらない鶴屋山の登山コースじゃないか。
「うおっ! あれは……」
 少し下った辺りの道を、先程まで俺たちを震え上がらせていた岩やらが、横切って転がり落ちていく。
 そういえば、今俺たちが居るのは、先程まで居た辺りより少し上に登った位置だ。
「……よかったぁ。成功したみたいです」
 そのはちきれんばかりの胸に手を当て、朝比奈さんはホッと息をつく。
「朝比奈さん、今のは時間遡行なんですか?」
「あ、はい。一応そうなんですけど、普通の時間遡行とは少し違って、今のは場所の移動が目的なんです。でも、 TPDDを使うには一応時間の設定もしないといけないから、時間設定はゼロ・コンマ・ゼロ五秒前。場所の設定が 百メートルほど登った位置です」
「ほほう、なるほど。瞬間移動、ということでしょうか」
「はい、そのとおりです。TPDDを応用した瞬間移動のようなものです」
 何というか、もう長門と朝比奈さんさえ居れば何でもアリだな。出来ない事を探す方が難しいだろ。
「でも、よっぽどのことがない限り、これをするのはダメなんです。とても危険なことなの。遡行前と遡行後の 時間と場所が極端に近い場合は、遡行した人にとっては危ないんです」
 一瞬、それがなぜなのかを愚かにも訊こうとしてしまったのが悪かったんだろう。
「時間平面上に発生する波紋同士の影響」
 長門の、ハーバード大学院生にも理解困難と思われる例の一言解答が、俺の頭の中を文字通り爆発させた。
「ええと、何て言えば……そうですね、例えば紙に太い水性ペンで点を打ちます。その点を遡行前の地点だと考えて 下さい。次にその点の中心から一ミリずれた所にまた点を打ちます。これが遡行後の地点。でも、ペンが太いから 点の半径は大きいし、紙にインクは滲んでるしで、二つの点がごっちゃになっちゃいますよね? それと同じこと なんです」
 解ったような解らないような。

 いや、でもだな、それなら、
「別にもう少し前の時間に設定にして、場所もいっそタイムカプセルのところにしてしまえば、危険度は軽減 されるし、一気に目的地にも着けるしで良かったんじゃないですか?」
 俺の指摘を受け、朝比奈さんはアッという感じの表情で、
「ふぇっ。……そ、そのとおりでしたぁ。ごめんなさい……これって、つい……これくらいの時間と場所の設定 っていう先入観があって……ごごごめんなさい……」
 目をウルウルさせて責任を感じていらっしゃる姿が壮絶に可愛らしいので、俺は大いに許すことにした。
「はは。いえいえ、結果として助かったことですし、朝比奈さんがいなければ、今頃僕たちは見るも凄惨な姿だった ことでしょう。時間遡行というとても貴重な体験もさせて頂きましたし、僕としては非常に満足ですよ」
「そうですよ、朝比奈さん。俺たちを助けてくれて、ありがとうございます」
 長門も朝比奈さんと目を合わせ、はっきりと分かる角度でコクリと頷く。
「ぐすっ……み、みなさん……ぐすっ……ありがとうございますぅ……えぐっ」
 皆の心温まるフォローを受け、朝比奈さんはとうとう泣き出してしまった。
 周知の如く解ってはいたが、なんと人情味深く涙もろいお人なんだろう。生まれは葛飾柴又、先祖はふうてんの 寅さんなのかもしれん。
「ほらほら、朝比奈さん。早いとこタイムカプセルまで行っちゃいましょう」
 俺は動かない朝比奈さんの手を取り、これでもかというほど優しくリードする。シャル・ウィ・ダンス?
 男はつらいね、まったく。

 力を合わせて皆で危機を乗り越えた後に深まる絆というものは、どうやら漫画や特撮ヒーローものの特権という 訳ではないらしい。
 先程の岩や木たちとの生死を賭けた鬼ごっこの最中に比べ、皆の顔が明るく変わり、楽しさを取り戻している。 それこそ本当に鬼ごっこでもやりかねない雰囲気だ。
 俺もその明るい顔の一人なのは今となれば言うまでもなく、春のピクニック気分を盛大に満喫し始めていた。
 
 だが、それが良くなかったんだろう。
 俺を始め、皆が完全に油断し切ってしまっていた。


 
 正にその時だった。



「いやぁぁぁぁ!!」
 本日、二度目の朝比奈さんの絶叫。
 だが、明らかに声が大きさが前回の比ではない。

 俺は後ろを行く朝比奈さんの方へ振り向く。
 朝比奈さんが目を向けている方向に、古泉の顔があった。
 だが、その顔にいつものスマイルはない。
 苦しさを堪えているような表情。
 俺は顔から下に目を向ける。


 目を疑うような光景だった。


 背中に近い脇腹の辺りから腹にかけて、鋭い金属のような物が古泉の体を貫通していた。

「こ、古泉っ!!」
 血が止めどなく溢れ出している。
 やがて、古泉は目を閉じてその場に崩れ落ち、倒れた。
 俺は怒涛の全速力で駆け寄る。
「古泉っ! くそっ!」
「古泉くぅん! いや、いやぁぁぁ!」
 俺はここから一番近い病院がどこなのかを考える。
 いや、駄目だ。見るからに病院までもちそうにない。
「うぇぇん! キョキョンくん、どうしよう……いや、いやぁぁ!」
 くそっ! どうすりゃいい!?
 山の上の方から、「うわっ、あの男に当たっちまった!」「やばいよ、一旦引こうよ!」なんて会話が僅かに 聞こえてくる。
 あいつら、朝比奈さんを誘拐した時の車に乗ってた奴らだ!
 おい、そういえば機関の人間がついて来てくれてるんじゃなかったのか? 何たってこんな事態になっても姿を 現さん!
 森さんと新川さんではないのは確かだな。あの二人なら即座に飛んできてくれるだろう。そう信じたい。
 俺が、無い頭を必死に働かせて古泉を救う方法を捻り出そうとしていた時。
 長門が、すっと古泉に近づく。
 そして、かすみ草のような白い手を古泉の腹にかざす。
「長門!」
 俺は再び長門の手を制する。
「すべては、察知できなかったわたしに責任がある」
「それは違う! お前のせいじゃない!」
「やはり、今の状態のわたしでは、あなたたちに迷惑を掛けるだけ」
 古泉の瀕死の姿。朝比奈さんの号泣。長門の自責の言葉。すべてが俺に混乱を促すようだった。

 古泉を助ければ長門が消える。逆に長門を優先すると古泉が助からない。
 何だよ、これは。
 何だって俺がこんな過酷な選択を強いられなきゃならないってんだ!

 ちくしょう!
 古泉か。長門か。
 マジでこの二択しか道は用意されてないのか?

 普段なら、ましてやこんな深刻な状況とは無縁の場面であれば、二人を天秤に掛けるような状況があったとして 俺は長門の肩を持つかもしれない。俺は長門に全幅の信頼を寄せている。
 別に古泉が嫌いという訳ではない。好きかと言われれば否定したくもなるが。
 古泉といえども、曲がりなりにもSOS団の一員であるのは事実な……、
 いや、違う。
 何だか解らんが、今のは確実に間違っている。
 俺は古泉に対して邪険な態度を取ることが多々あったりするが、それが根っからの本心であるかどうかと詰問 されるとどうだ?
 決まってる。答えはノー、だ。
 古泉が悪いやつではないことは百も承知している。
 雪山の時に至っては、機関を裏切ることになっても長門の肩を持つと言ってくれたりもした。
 
 ああ、そうだよな。
 古泉、長門。

 そう、俺にとっては二人とも、甲乙やら優劣やらつける事なんて如何なる理由があろうと不可能な、何よりも 大切な仲間なんだ。
 どちらか一人を選ぶなんて芸当は、俺には到底できない。できるはずがない。
 だから。
 俺は、SOS団誰一人欠けることのない、そんな結果を生み出す選択肢を見つけ出さなきゃならないんだ!


 朝比奈さん(大)、あなたが言ってた分岐点ってのは、この事だったのか。
 確かに大きな分岐点だ。ちょっとばかし大きすぎだが。
 だが、朝比奈さん(大)はこの事態をどうやって乗り切れと言うのだ。


 いや、待て、何か忘れている。
 何か大事な事を。
 思い出せ。
 そうだ、このあと朝比奈さん(大)は何て言った?


 『その分岐方向によっては、あなたは涼宮さんの力が封印される日を絶対に忘れちゃダメなの』




 ――これだ。




 古泉と長門を救う、唯一にして絶対の手段。まあ、絶対かどうかは解らんが。
 ハルヒ、やっぱりお前か。
 俺はXデーを確認する為、携帯で日付を見る。
 朝比奈さん(大)の予告から二週間後ってことはつまり、


 ――今日じゃねえか。

 
 おいおい、いくら何でもそりゃ一日に色々詰め込みすぎだろ。生き急ぐと早死にするのがオチだぜ、ハルヒ。
 ていうか、電話が繋がらないようなところに居るんじゃあ、現地に行かなきゃならんじゃないか。とんだど田舎 だな。
 だが、行くのはいいとしてだ。ハルヒの帰省先って、どこだ?
 昨日のハルヒとの会話の中で、その都道府県名が出てきた。それは覚えてる。
 だが、そこまでだ。
 そりゃ何気ない会話の中で、何とか市何とか町まで言う必要などないからな。たとえ言っていたところで、俺が その住所を丸暗記しているわけがない。
 まあ、その辺は後から何とかなるだろ。何にせよ今は時間がない。
 兎にも角にも、まず行動だ。
「長門! 古泉を治療してやってくれ!」
「え!? え? キョ、キョンくん?」
 長門は俺を真っ直ぐに見つめ、長門的に見れば大きな角度で頷く。
「情報連結、解除」
 古泉を瀕死たらしめている金属が、サラサラと輝く砂となり、やがて消えていく。
「流出した血液及び、欠落した腹部の有機情報を再構築」
 続いて、古泉の傷がみるみる塞がっていき、元通りの体になっていく。
「ごほっ……ん……」
 古泉が息を吹き返した。
「こ、古泉くんっ!」
「古泉!」
「ん……おや? どうしたことでしょう。確か僕は腹部の辺りに……もしや、長門さん……」

 あの朝倉の最後を思い出させるかのような光景だった。
 長門の足首から下が消えている。先程の金属のように輝く砂に変化しながら、体の下の方から徐々に消えて いくのが見て取れる。
 長門の体の消滅が、早くも始まっていた。
「安心しろ、長門。お前をこのまま消えっぱなしにはしない。すぐに元に戻してやるからな」
 俺は右手を長門の肩にトンと乗せる。
「……そういうことでしたか。あなた、まさかとは思いますが……」
「そのまさかだと思うぜ」
 その"まさか"を俺に肯定された古泉は、笑みを崩さず動揺するという器用な事をやってのけている。
「だが、お前も安心していい、古泉。なぜかという質問には今は答えることはできんが、お前にもじきにわかる」
 朝比奈さん(大)は誰にも言うなって言ってたしな。
 古泉はまだ納得がいかない様子で、しきりに俺に説明を求めるような視線を送っている。
 長門は、膝から上のみの体を古泉の方に向け、
「心配ない。あなたが危惧しているような事態にはならない」
 それは、一体全体どういうことだ?
 今度は、太ももから上のみの体を俺の方に向け、
「わたしの有機情報連結の解除が終了した後、おそらく、情報統合思念体によって記憶の改竄が行われる」
 何の記憶を変えるってんだ。事と次第によっては、俺は黙っちゃいねえぞ。
「わたしと関わったことのある人間から、わたしに関する記憶を消去する」
 ……おい、何だよそれ。
「わたしという存在は、始めから無かった事になる」
 待てよ。何なんだよ。
 ここまで来ておいて、最後はそれかよ。
 そんなのありかよ!
 何だってそんなことをしなきゃなんねえんだ!
「長門! 何でだ! 何で古泉を助ける前に、そんな大事なことを黙ってたんだ! お前のことを忘れるだと? ふざけるな! そんな事があってたまるか! 今すぐお前の親玉に言ってやれ! そんなたわけた事をした日には、 お前たちもただじゃすまない、こっちにはハルヒがいる事を忘れるな、ってな!」
「大丈夫。その感情も、記憶の改竄で上書きされる」
 俺はあまりのやるせなさに、あたかも風船がしぼむように力が抜けていく。
 いつの間にやら長門の消滅は、もう胸の辺りまで進んでいる。
 無力だ、俺は。
 結局何にもできやしない。今ばかりは、一般人であることを心から悔やむ。
 あまりの無力感と悔しさでいっぱいになり、俺はガクッと膝をついた。
 地面を思いっきり殴りたい衝動に駆られるが、まるで意味のない行動に寸でのところで思いとどまる。
 いかん、俺がこんなでは、どうにかなるものも駄目になっちまう。
 事が事だけに、今回ばかりは何がどうあろうと最後まで諦めるわけにはいかん。
 情報統合思念体なんぞに負けるまいと、俺は気を強く持とうとした。
 俺は気の迷いを吹っ切るように立ち上がり、声を荒げる。
「長門! 記憶の改竄だろうが何だろうが、俺は絶対にお前を忘れたりなんかしねえ! 必ずお前をここに取り戻す からな!」

 俺が、いや、俺たちが長門のことを忘れるなんざ、しし座流星群が地球を蜂の巣にしようがありえねえ。
 長門がSOS団の皆にとってどれほどの存在なのか、あいつらは何も解っちゃいねえ。
 情報統合思念体とやらも、さぞ驚くことだろうよ。なにゆえに我々の力が通用しない、ってな。

「今一度伝える」

 顔だけになった長門が言葉を紡ぐ。


「ありがとう」


 言い終わると同時に、口が消える。
 その言葉を最後に、長門が完全に俺たちの前から消えた。

「ちくしょう! 長門!」
「うえっ、ぐすっ……長……ぐすっ……長門……えぐっ……さん、いやぁ……」
 そして古泉は何も言わず、表情が見えないほど顔を俯けている。

 俺は再び膝をついた。今度は手も地面につく。
 目眩がした。
 二度と味わいたくないと思っていた、あの喪失感が再び俺を襲う。
 やっぱり、俺には笑えないことだった。
 朝比奈さんは先程から延々と泣き続けている。俺だって泣きたい気分だ。
 しばらく、朝比奈さんの泣き声だけが辺りに響く。

 そして、そんな中、
「長門さんは、僕の命と引き換えに消滅したも同然です。それを黙って見過ごせるほど、僕は薄情な人間では ありません」
 古泉が俯けていた顔を上げた。
「記憶の改竄は、まだ行われていないのか、結局行われることはないのか、どちらかは解りません。ですが今は とりあえず、僕の記憶は正常です。あなた方もそのはずでしょう?」
 そう言われりゃそうだ。俺はまだ長門のことを忘れちゃいない。
 古泉の目線が俺の顔を真っ直ぐに捉え、
「先程あなたが行おうとしていた、長門さんを救う方法。そして、それを実行したところで僕が心配するような 事はない、と言いました。後々僕にもその理由が解る、ともね」
 ああ、そのとおりだ。

「今更ですが、僕はそれに賭けたいと思います」

 こいつはまだ、諦めちゃいない。
 そうだ。そうだよな。
 何を俺は弱気になってんだ。我ながら自分の弱さに反吐が出るぜ。
 記憶の改竄まで、まだ割と時間があるのかもしれない。あるいは、皆の気持ちが本当に記憶の改竄に勝ったと いうことも、無いとは言い切れない。

 今、俺がすべき事はただ一つ。

「行って下さい。彼女のもとへ」

 行ってやるさ、今すぐにな。

「長門さんを救えるのは、あなただけです。それと……」
 古泉はここまで言って、一旦言葉を区切り、

 
「それが無事成功した後、彼女の不安定な心を支えることができるのも、あなただけなんですから」


 俺はすぐさま走り出した。
 一路ハルヒのもとへと。
 
 そして走りながら携帯の時刻を見る。
 おそらくギリだな。

 ――まってろ、ハルヒ。

 俺は気持ちスピードを上げる。
 正直、登山中のいざこざのおかげで、俺のライフゲージはすでに赤く点滅しているのだが、んなこと今は関係ない。
 長門を取り戻す為、俺はがむしゃらに走り続ける。

 そう、これは俺にしか出来ない事。
 その為に、俺が向かわなければならない。

 四年前の七夕に手にした、最後の切り札を胸にしまって。


 飛ぶが如く。



 ――いざ、最終決戦へと。





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