『噛む』

 

 最近彼は噛んでこない。……アレの最中に噛まれるのは好きじゃなかったけれど、噛まれないとなると不安になる。付き合い始めたころはよく噛まれた。といっても常識の範囲内で。「常識?」と私は自分で言って笑いそうになる。愛や恋に常識などあるのだろうか? あくまで二人の問題であって、決まった常識などないのではないか。そもそも、彼を含めて、かつての男たちとの付き合いが「常識」の範囲内に属するのかなんて私にはわからない。が、それはいい。大した問題ではない。今の私にとって常識かどうかは別として、最近噛まれないのが不安で仕方がない。だから私は彼に言った。アレの最中に。

 

「ねぇ。なんで最近噛んでくれないの?」

 

 彼女はそう言った。アノ最中に。そうだったのか? 俺は最近、彼女を噛んでなかったのか? 俺は愛するもの噛むという衝動に駆られるらしく、理由なんてわからずとにかく噛まずにはいられない、はずだった。でもそう言われてみれば最近噛んでいないかもしれない。それはいわゆる「フェチズム」といわれるものかもしれないけれど、彼女に対してその衝動がなくなったということは……と頭をよぎった。しかし今、彼女を眼下に収め愛を身体で交わそうとしている。彼女の言葉から1秒も経っていないだろうか、ゆっくり彼女の顔に目を向けると、まっすぐに俺を見つめる瞳とかち合った。いつもの彼女よりも明らかに強い眼差しだった。それを受け止めることができなかったのか、俺は心ならずも臆してしまった。そして言った。少しとぼける感じになってしまいながら。

 

「そうだっけ?」

 

 そう言った彼が少しとぼけた感じだったのが、私をさらに不安にさせた。もっと他にいい言葉や行動があるのに、どうしてそんな態度をとるの? たとえば、じゃれるように噛んできてくれたら。不安……。私は愛されたいのだろうか。疑う余地のない愛を求めているのだろうか。いや、そこまで求めなくても不安を感じるのは普通のことなのだ。「普通?」と私は思いをめぐらす。普通ってなんだろう。不安定な感覚に「みんな同じようなものだよ=普通」もしくは「そう感じてるのは仕方のないことだよ=普通」という言葉を与えて安心感を得たいだけなのではないのか? そうか。普通というのは安心感のためにある言葉なのか。なんて、そのときはそんなことを考えもせず当然のように彼を追い込んでいく。その先にあるものを見据えて。

 

「そうだよ。前はもっと私が嫌がるくらい噛んできたじゃん。」

 

 彼女の言葉に、初めて彼女を噛んだときのことを思い出す。あの、衝動。とにかく愛おしくてたまらなかったのだ。そしてそれを実行に移した後、腕の中の彼女と思いつきの会話をした。

「噛むってのは神の愛情表現なんだ」

「なにそれ? 噛むと神の語感が似てるだけじゃん」

「そうだよ。噛むという発音は、もともと神の御業、カミワザからきてるんだよ」

「ほんとに?」

「うそ。噛みたくて仕方がなかっただけ」

「カミングアウト?!」

「そう。噛みングアウト」

そういってまた彼女を軽く噛んだ。親密な関係の二人にしか楽しめない会話、雰囲気。彼女はたまに身をよじって逃れようとしたけれど、それも二人のじゃれ合いにつながっていく。今はそんなことなく、淡々と、心のどこかが冷めているような感覚がある。……誤魔化すべきなのか、俺はうまく言葉がでてこなかった。

 

「ねぇ、どうして何も言わないの?」

 

 ふと黙ってしまった彼に私は言った。彼は私の左側に立てていた右腕をゆっくりと持ち上げ、左腕を下にして横になり、既に私の上から隣へと移っていた。目が合ったときには驚いたような顔をしていたが、今は何か、不思議な、神妙な顔つきになっていた。「神妙?」漢字が頭に浮かんで記憶が蘇る。「神」の「妙」で「神妙」……いつか彼と交わした下らない会話。噛むことは神の妙技(だったかな?)であると、そんな他愛もない冗談も幸せだったな。しかし今はもう目を合わせようともしていない。少しの静寂の中、彼の「すぅ〜」っと微かに空気を取り込む音が聞こえた。考えて(あるいは考えてる振りをして)話し始めるときの彼の癖だった。瞬間、彼の言葉が出てくる前に、はき捨てるように言った。ほとんど反射的に。

 

「もう私のこと好きじゃないんじゃないの」

 

 その言葉を聞いた俺の中で、急速に冷めていく感覚が拡がっていった。何かを反論しようとしていたのだが、その言葉も一瞬で消えていってわからなくなってしまった。先ほどまでとはちがう、手にとるようにわかる感情。的を射てる気がしたのだ。彼女の言うとおり「俺はもう、彼女のことが好きじゃない」んじゃないか? アロマポットの仄かなオレンジ色のライトが俺たちを照らしている。彼女が俺を見ているのは明らかだったが、目を再び向けることはしなかった。しかし、何かを言わなくてはいけない。もしくは……

 

「もういい!」

 

 いまさら、しかも誤魔化すように歯を立ててこようとした彼を避けながら私は言う。半ば泣きながら。いや、勝手に涙が溢れてきていた。このまま彼の態度を観察していたかったのだが、本能的に体が動いていた。その雫が流れてきたのを見られたくないかのように、毛布を奪って体に羽織り、立ち上がった。それでも彼は気づいているはずだ。かすかに、しかし聞こえるように鼻をすすりながらはき捨てるような言葉をつなげる。彼はどう出るだろうか。

 

「バカ!」

 

 毛布を体に巻き立ち上がって俺に背を向けながら、彼女は涙声ではき捨てるように言った。ここで何も言わなければきっと本当に終わりへと向かって行ってしまうのだろうと、考えるもなく感じている。が、妙に冷めている部分が手に取るように自分の中にあって、少しの間のあとに、覚悟して言う。

 

「俺、帰るわ」

 

 例え彼がなんと言おうとも、実は私は別れるつもりだった。ほぼ私が意図したとおりの展開の最中、しかし終わりはあまりにも早かった。本当に大事にされてなかったんじゃないかと思うと、もう演技ではなく涙が止まらなくなってしまう。でも、望んだ別れなんだ。いや、それでも……

 

「なんで? なんで帰るの?」

 

 だから女性はわからない。いや、まぁ当然か。普通なら別れないようにどうにかすべきなのだろうし、きっとそういう演技もできる。そうして欲しかったのだろうに、俺はあっさり引き下がったのだから。

 

「ちょっと一人で色々考える」

 

 私が仕掛けたとはいえ、いざとなるとやっぱりさみしくてたまらなくなる。ほぼ本能的に、彼を引きとめようとする。一体私は何をしているのだろう。何を求めているのだろう。どうして別れようとしたのだろう。

 

「何を考えるの? 一緒に考えればいいじゃん」

 

 彼女は自分でなんと言っているかわかっているのだろうか。もはや泣いていることを隠すそぶりも忘れているかのような彼女。彼女への気持ちを疑いようもなかった頃を思い出したが、それは感傷だろう……。

 

「ねぇ、行かないで!」

 

 脱ぎ捨ててあった服を身につけようとしている彼を止めることができず、そう言ってしまう。さらにしつこく、言葉を続ける。それでも彼は何も言わずに身支度を整えていく。頑なな彼に、私もようやく冷静さを取り戻していく。しかしそれは、まだ強がりを言う程度の冷静さに過ぎない。

 

「もう、勝手にすれば」

「そうするよ」

 

 強がりだろう彼女の言葉に間髪入れずに答える。最低だな、俺。そう心の中でつぶやく。しかしそうしなければ、俺のちっぽけな覚悟は負けてしまいそうだ。今の俺は、わずかに背を向けてベッドに腰を下ろした彼女をそっと抱きしめそのうなじに軽く歯を立てたい衝動に駆られている。皮肉にも、噛みたいという別れ際の衝動。きっと強引にでもそうしてしまえばいいのかもしれない。とはいえ、情と感傷に流されてそうしてしまうと、わずかの延長戦の中で彼女をゆっくりと傷つけていくことになるだろう。俺はいずれ彼女と別れることになると感じていた。うっすらと。もちろん、それが今日だとは思わなかったけれど、はっきりと気付いてしまった今、別れるべきなのだ。俺が彼女の心に残した噛み跡はいつか、癒されていくだろう……。

 

「今までありがとうな」

「……」

 

 きれいごとの台詞をはいた彼が玄関のドアを開けて出て行ってしまうのを横目で捕らえていた。なぜか今更、名残惜しそうにこっちを見たけれど、気付かない振りをした。冷静さを取り戻した私は、一瞬でも今日の意図を忘れた自分がいたことに少し驚いていた。目の端の彼はそんな私の感情などわかるはずもなく去っていく。その姿がドアの隙間に細くなって行くのを確認し、ゆっくりとそちらの方に振り返る。このドアの隔たりは、きっと彼との永遠の隔たりを意味するのだろうとぼんやりと考えていた。これでよかったんだ。きっと私の選択は正しい。というよりも、私の本能はきっと正しい。今部屋を出て行った彼ではなく、もう一人の男性との未来。これで噛み跡を隠したり誤魔化したりしなくてもいい。バレないうちにちゃんと手を打つことができたんだ。描いていたとおりではなかったけど、やっぱり最近私のことを好きではなかったんじゃないかという予想は当たっていたんだろうし、これでよかったんだ……。残された静寂の中、涙の名残を拭いながら、玄関の鍵を閉めなきゃいけないと考えていた。ちゃんと彼との決別を認識するために。そして、確実な幸せの未来のために。